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スーパーリンペーとペッチューリンは別々の型なのか

もう10年以上前、廃刊になった『月刊空手道』の別冊で、東恩流の特集が組まれていた。この特集自体は、それ以前に『月刊空手道』で掲載された特集を再掲したものである。

『源流・沖縄空手』(『月刊空手道』1月号別冊、福昌堂、2007年)

東恩流は、東恩納寛量の弟子の許田重発が設立した流派である。剛柔流とは兄弟流派になる。当時、東恩流自体、幻の流派という感じでメディアに紹介されることが少なかったので、はじめて知る情報が多かった。とくに、ペッチューリンに関する箇所で、スーパーリンペーとペッチューリンは別の型だという主張は筆者の関心を引いた。

5 百歩連(ペッチューリン)
1965年(昭和40年)ころ、大分県大分市で仁武館(剛柔流)という空手道場を開いておられた故・毛利彊先生の記念演武会に招待され、見学させていただいた時のことです。その時の演武会にスーパーリンペーがありました。私は演武されたスーパーリンペーと東恩流のペッチューリンは、同一の型だと思っていました。しかし記念大会から戻り、許田先生に「私たちのペッチューリンとはここが相違していました」と報告したところ、許田先生の顔つきが変わりました。
「いいか、神崎君! 東恩納のタンメー(翁)は、ペッチューリンとして指導されたのだ。剛柔流のスーパーリンペーは、スーパーリンペーであって、ペッチューリンはペッチューリンなのだ」と言われました。
許田先生は一度もスーパーリンペーとは言ったことがなく、あくまでもペッチューリンとして指導されていました。
ここで一つ疑問が生まれます。なぜ、宮城長順先生は東恩納寛量から、習ったペッチューリンを『スーパーリンペー』とその名を変えたのでしょうか。
それとも、スーパーリンペーを全く別の型として考えていたのでしょうか。そうすると剛柔流にはペッチューリンがないことになってしまいます。
「ペッチューリンとスーパーリンペーは同じ型だ」と言う人がいますが、私は全くの別ものであると考えています。

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剛柔流では、一般にスーパーリンペー(別名・ペッチューリン)として、同一の型として紹介しているが、東恩流では別の型という認識らしい。興味深いのは、寛量先生はスーパーリンペーを教えたことはないという主張である。もしそれが本当なら、では、宮城先生は誰からスーパーリンペーを習ったのだろうか?

今日、スーパーリンペーには壱百零八の漢字を当てるのが一般的である。そして、壱百零八という型は1867年の御茶屋御殿で、富村筑登之親雲上によって演武されている。この人物が誰だったのか、また弟子はいたのかなど全く分かっていない。

ところで、東大の三木二三郎、高田瑞穂『拳法概説』(1930)に「一百零八」について興味深いことが書かれている。

一百零八(ペッチュウリン)は現在琉球において真に理解せる人は宮城長順先生と屋比久孟伝先生の2人に過ぎないことは今夏私が琉球において某専門家たちから聞いたことである。

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三木等はここで、一百零八と漢字で書き、ペッチュウリンとフリガナを振っている。どうやら、この頃から沖縄では、一百零八=ペッチューリンという認識が成立したようである。しかし、このとき、まだスーパーリンペーという発音は確認できない。

屋比久孟伝は首里儀保の人で、今日では古武道のほうで名前が知られているが、空手は糸洲安恒先生にも師事した人である。しかし、糸洲先生が一百零八もしくはペッチューリンをやっていたという話は聞いたことがないので、屋比久先生は別の誰かから習ったのだろう。

ここで少し整理しよう。沖縄に琉球王国時代からあった一百零八。そして、東恩納寛量が学んできたとされるペッチューリン。そして、現在の剛柔流や糸東流で稽古されているスーパーリンペー。この3つの型は、一般には同一の型の別名だと認識されているが、果たしてそうだったのであろうか。

ひょっとすると、屋比久孟伝は首里手の一百零八を学んだが、これは東恩納寛量のペッチューリンとも、現在のスーパーリンペーとも別の型だった可能性もある。もしどこかに屋比久先生が学んだ一百零八が伝わっていれば、それと現在のスーパーリンペーと比較すれば、型の相違や変遷が分かるかもしれない。

出典:
「スーパーリンペーとペッチューリン」(アメブロ、2019年2月17日)。


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