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安里安恒の型と船越義珍のナイハンチ

前回の記事で、船越義珍のクーサンクー(現・観空)大の手刀受けは、本部朝基の手刀受けと同様のものだったと述べた。それは、糸洲系統とは違って上段に構えて、手首も曲げずまっすぐに伸ばすのが特徴であった。

ところで、前回、船越先生のクーサンクー大は安里安恒が教えたものであると述べたが、その根拠は何であろうか。藤原稜三との対談で、儀間真謹は以下のように語っている。

富名腰義珍師範は、沖縄師範学校に付設されていた6ヶ月教程の簡易科(講習科)の出身者で、その後、努力して正教員に合格しておりますが、唐手術の修業は、松村宗秀原文ママの高弟・安里安恒師範の許でクーシャンクーをやっておりましたので、ナイハンチには通じていなかったのです。

儀間真謹・藤原稜三『対談 近代空手道の歴史を語る』118頁

儀間氏はもと沖縄県師範学校出身で、在学時には糸洲安恒と屋部憲通に空手(唐手)を師事した。東京商科大学(現・一橋大学)在学中、上京中の船越先生が柔道の講道館で空手演武をした際、一緒に演武した。その後、船越腰先生にも師事するようになり、最初の初段の免状を授与されている。

こうした関係から、船越先生はクーサンクーを安里から習ったという逸話を儀間氏は直接本人から聞いた可能性がある。

また、藤原氏も儀間氏との対談で以下のように語っている。

藤原 ところで八代六郎少将が那覇に上陸した当時は、まだ、糸洲安恒師範の創作した『ピンアン』の形が発表(明治37年4月)されて間もない頃ですから、あまり広く普及していたわけではないでしょう。
儀間 いや、那覇市内の尋常小学校生徒の間では、ある程度まで普及していたと思います。しかし、師範学校の場合は、稽古の主体が『ナイハンチ』でしたから、『ピンアン』の形は、それに関心のある者だけが随意にやっていたにすぎないのです。屋部憲通師範の指導方針も、『ピンアン』の稽古をやる時間があるなら、『クーシャンクー』をやりなさいというものでしたから、富名腰師範の場合も、東京に出てくる直前頃までは、おそらくやっていなかったはずです。
藤原 どうも、そのようです。富名腰師範に『ピンアン』の形を教授したのは、唐手研究会をリードしていた摩文仁賢和師範だと聞いております。しかし、富名腰師範の場合は、安里安恒翁から、『クーシャンクー』の形を仕込まれておりますから、『ピンアン』の習得には、それほど苦労しなかったと思います。

儀間真謹・藤原稜三『対談 近代空手道の歴史を語る』86頁

藤原氏の発言の根拠はわからないが、儀間氏から聞いたのか、あるいは大塚博紀(和道流)から聞いたのか。

実は船越先生は自著で安里安恒から何の型を教わったのか述べていない。それゆえ、船越先生が初期に教えた「松濤15の形」のうち、どの型が糸洲伝で、どの型が安里伝なのか不明なのである。また、引用部分にあるように、摩文仁先生から教わったとされる型もあるが、どれがそれに該当するのか船越先生は語っていない。

それゆえ、船越先生の型の伝系を考察する上で、儀間氏のような船越先生の初期弟子の証言は貴重なのである。

さて、クーサンクー以外に、安里安恒から伝わったと推定される型はほかにあるだろうか。個人的には、ナイハンチ(現・鉄騎)初段は安里伝ではないかと思う。以前、「ナイハンチの変遷」で述べたように、船越先生のナイハンチは糸洲のナイハンチではなく、古流ナイハンチの特徴を備えていたからである。

上の写真にあるように、糸洲のナイハンチの特徴は、立ち方はサンチン立ちのように膝を内側にしぼり、手は掌を上に向けた背刀受けをする。これに対して古流ナイハンチは、四股立ちのように膝を開いた立ち方をし、手は掌を正面に向けた背手打ちである。

船越先生のナイハンチは、松村宗棍先生に直接師事した屋部憲通先生や本部朝基のそれと似ているのである。ほかに、セイシャン(現・半月)は、喜屋武系のセイサンと似ているので、安里伝かもしれない。

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