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古流の手刀受け

この話は以前書いたことがある。本部朝基が大阪の家を留守にしている間、宗家(本部朝正)は近所の沖縄出身の人たちと一緒に空き地で空手の稽古をしていた。そして、誰とはなしに、ピンアンを覚えた。本部朝基が家に戻ってきたとき、宗家はきっとほめてもらえるだろうと思って、そのピンアンを披露したところ、本部朝基はみるみる不機嫌になって、いろいろ注意を与えた。

その注意の一つに「手刀受け」に関するものがあった。宗家が近所で覚えてきたピンアンの手刀受けは、よくあるように手首のところで少し曲げて手刀を立たせるように構えるのだが、これが本部朝基には気に入らなかった。そして、手刀受けは手首はまっすぐ伸ばすように指導した。

本部朝基が言うには、「手刀というのは手の刀と書くのだ。刀が曲がっていていいか? 手首はまっすぐ伸ばしなさい」

おそらく本部拳法の術理から考えると、型の中の手刀受けは「受け」とは限定されていないのだ。それは手刀「打ち」かもしれない。だから、攻防いずれにも使えるように手首は伸ばしておいたほうがいい。

筆者はこの手刀受けの考えは、本部朝基独自のものだと思っていたが、船越義珍先生の手刀受けの写真を見て、同じような手刀受けをしていることに気づいた。

『錬胆護身 唐手術』(1925)より。

上の写真はクーサンクー(現・観空)大で最初に手刀受けする箇所である。船越先生は手首をまっすぐ伸ばし、また受ける位置も上段である。船越先生の初期弟子であり、かつ一緒に講道館で演武したこともある儀間真謹によると、船越先生はこのクーサンクーを安里安恒から習ったという。つまりこれは「非糸洲系統」のクーサンクーということになる。

ところが、これが糸洲安恒先生の系統になると、やや手首を曲げるようになる。下の写真は、知花朝信先生のクーサンクー大である。

出典:Chibana Chosin - Kusanku Dai (YouTube)

動画からの画像なのでやや不鮮明だが、知花先生は手首のところで少し曲げて、構える位置も船越先生よりも低くなっている。

そして、次の写真は本土の糸東流の公相君大の写真である。

出典:Kosokun Dai (shito ryu) (YouTube)

手首はさらに曲げられていて手刀部分はほぼ垂直に立てられている。また、構える位置も知花先生よりもさらに低い。摩文仁賢和先生の写真は見たことがないので、この通りなのか筆者には分からない。やや競技向けにアレンジされているのかもしれない。

このように比較してみると、本部朝基の手刀受けは独自のものではなく、糸洲先生が改変する以前の古流の手刀受けだったのではないだろうか。安里安恒は松村宗棍先生の直弟子だったから、手首を曲げない手刀受けは松村先生が教えた手刀受けだったのかもしれない。

出典:
「古流の手刀受け」(アメブロ、2018年11月18日)。


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