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柔道の離隔態勢の研究と戦技柔道

講道館の機関誌『柔道』(昭和18年8月号)所収の南郷次郎「本年の暑中稽古」に以下の記述がある。

本館が本年の暑中稽古中例年と異なり、特に執行せる鍛錬の二つの特殊行事を記載して、地方指導者の参考に資せんと思ふ。
其の第一は午後二時半、暑中稽古第一点呼の後、短時間をさいて「体捌」並に「当」の攻防教習である。蓋し今日本館(ほんかん)に修行せるもの明日は前線に召さるるも計られず、柔道の離隔態勢に於ける一撃必殺の修練は、戦場に於て直にその必要を痛感せらるることと信ずるが故である。

2、3頁

南郷次郎なんごうじろう(1876 - 1951)は講道館の第2代館長である。最終階級少将の海軍軍人であったが、嘉納治五郎の甥であったことから、講道館館長に就任した。

上記によると、昭和18(1943)年8月に講道館で催された暑中稽古では、例年と違って2つの課題で稽古が行われた。一つが「離隔態勢りかくたいせい」の稽古、もう一つが「数稽古」と呼ばれる30分間連続で行う稽古である。

戦時中であったため、いずれも戦場での実戦を意識した稽古であったのであろう。

離隔態勢りかくたいせい」というのは難解な言葉であるが、要するに空手や合気道のように離れた間合いでの攻防態勢ということである。したがって、離れた間合いから繰り出すあて、すなわち当身あてみ(打撃技)と、その当身を避ける「体捌たいさばき」の攻防練習を実施したということである。

当時、講道館では「戦場で使える柔道」ということが喫緊の課題であった。一説によると、軍部から柔道は戦技せんぎとして役に立たないとの批判があったという。

周知のように、柔道では互いに相手の袖や襟をつかんで乱取りを行う。かりにこの態勢を「組合態勢」と呼ぶとすると、組合態勢での攻防は当身の禁止の上に成り立つ。もし当身を認めれば「離隔態勢」を取らざるを得なくなる。

離隔態勢で戦う武道は空手、ボクシング、合気道等、組合態勢で戦う武道は柔道、相撲、レスリング等がある。

すでに嘉納治五郎の頃から、当身を柔道にどう取り入れるのかは重要な課題であった。船越義珍を講道館に招待して空手演武を参観したり、沖縄訪問中、本部朝基の実演を参観したのも、空手の当身研究が目的だったのであろう。横本伊勢吉「琉球九州随伴記」(1927)に以下の記述がある(注1)。

(嘉納師範は)本部氏が拳骨にて、厚さ八分もあろうと思はれる板一枚を破つたり、又、掌(小指側の筋肉)でその二枚重なつたのを容易に割つたりされる実演を見た。本部氏は、多年この唐手を実地に応用することを研究して、実地に試みることについては、沖縄第一と称せられてゐる人である。師範親しく本部氏の拳、掌を手で触つてみられて、その練習について大いに称賛せられた。

上記によると、本部朝基は空手の実地応用、すなわち組手では「沖縄第一」と称せられ、嘉納氏は本部朝基の拳や掌を触って、その練習を大いに称賛したという。

嘉納氏が制定した「精力善用国民体育」の形はおそらく空手研究の成果であるが、離隔態勢での乱取りは残された課題であった。

南郷氏は軍人出身であったから、柔道の戦場で活用は重要なテーマだったのであろう。昭和16(1941)年、南郷館長の命により、村上邦夫を委員長として「離隔態勢における柔道の技」の委員会が設けられた(注2)。また、京都の武徳会や武道専門学校でも、栗原民雄が中心になって研究が行われた。

離隔態勢での柔道技法の研究というのは、単にスポーツ的な観点からなされたわけではない。柔道を戦場でも使える「白兵戦技はくへいせんぎ」として位置づけるという観点からもなされた。いわば「戦技柔道」の研究である。

戦争の激化に伴って、とくに学校柔道は戦技としての武道の一環を担い”白兵戦技”との位置づけとともに”忠勇義烈の精神”を磨く手段に組み込まれていった(注3)。

しかし、戦後、「武道禁止令」等様々な困難により、柔道の離隔態勢、当身の研究は下火になっていった。また、戦時中の関連資料の多くもGHQの追及を恐れて焼却処分にされたという。

もし柔道における離隔態勢や当身の追求が戦後も行われていたら、柔道はどのような姿になっていたのであろうか。

注1 横本伊勢吉「琉球九州随伴記」『作興』6(3)、講道館文化会、1927年、35頁。
注2 富木謙治「柔道原理と剣道原理」『柔道』43(9)、講道館、1972年、5頁。
注3 岡尾恵一「『柔道家』栗原民雄」『柔道』64(8)、講道館、1993年、39頁。


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