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花城長茂の空手

上原清吉の初期弟子に仲村渠完蔵なかんだかりかんぞうという人がいた。宗家(本部朝正もとぶちょうせい)が上原先生に師事しはじめた1970年代には、すでに年配であまり稽古には来られていなかった。それゆえ、国内では本部御殿手の門弟でもいまは知ってる人は少ないと思うが、海外では時々紹介されていたりする。

仲村渠完蔵。『舞と武 合同研究発表会』(昭和52年)パンフレットより。

仲村渠氏は、戦前、つまり上原先生に師事する前は花城長茂はなしろちょうもに師事していた。周知のように、花城先生は糸洲安恒の初期弟子であり、かつ旧制沖縄県立第一中学校で唐手師範(体操教師)を務めた大家である。しかし、自らの流派を興さなかったので、現在では花城先生の空手はいま一つ知られていない。

仲村渠氏は、この貴重な花城長茂の空手を受け継いでいたのだが、同じ時期に上原先生に師事していた比嘉清徳の子息の比嘉清彦先生(生道流神気古武道宗家、神道流宗家)が当時この仲村渠氏に習っていて、花城長茂の型がいまも清彦先生の武芸館に継承されているそうである。

上の写真は、糸洲安恒―花城長茂―仲村渠完蔵と伝わった「パッサイ大」である。糸洲のパッサイは、流派によって、呼称がパッサイ大だったりパッサイ小(知花朝信の小林流)だったりする。

ほかにも武芸館では、花城長茂のナイハンチやピンアンが受け継がれている。とくに花城のピンアン初段は、握拳でおこなう珍しいものだが、最近武芸館副館長の比嘉清博先生がYouTubeにアップロードされている。

空手研究者の金城裕によると、糸洲先生は晩年になってピンアン初段の手刀受けを生徒の安全を考慮して握拳に変えたという。上の動画はまさにその通りになっていて、ピンアン型の変遷を考察する上でも貴重なものである。

出典:
「花城長茂の空手」(アメブロ、2016年12月15日)。note移行に際して改稿。

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