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義村御殿、浦添御殿、本部御殿の血縁関係

昨年秋、那覇にある義村御殿のお墓を訪れた。これまで何度か紹介してきたように、義村朝明の長男朝真、次男朝義とも空手を習い、特に朝義は自伝で当時の沖縄の武術事情を簡潔ながらも述べているので、空手史的に重要である。

義村御殿の墓。筆者撮影。

義村御殿の元のお墓は首里平良町にあった伝統的な亀甲墓だったが、現在は上の写真のように移転して現代的なお墓になっている。実は、このお墓の左隣にまったく同様の奥武殿内おうどぅんちのお墓がある。

左奥が奥武家の墓。筆者撮影。

義村御殿と奥武殿内。この二家はどういう関係にあるのであろうか。実は義村朝明はもとは奥武殿内の出身で、義村御殿へ養子に入ったのである。義村御殿の家譜に以下のようにある。

原係向文輝奥武親方朝昇第五子母乃向姓松嶋親方朝常女思戸因又従兄尚謙無嗣道光二十七年丁未六月廿二日請 旨為跡目二十四日遷入

向姓家譜(義村家)

現代語訳:
(義村按司朝明は)もとは向文輝しょうぶんき奥武親方おううぇーかた朝昇ちょうしょうの五男で、母は向姓しょうせい松嶋親方まつしまうぇーかた朝常のちょうじょう娘・思戸うとだが、又いとこの尚謙しょうけん、義村王子朝章ちょうしょうに跡継ぎがいないため、道光27年(1847)6月22日にその跡継ぎとなることを国王に申請し、24日に転籍した。

義村御殿の初代は尚穆王しょうぼくおう(在位1752 - 1794)の三男であった。一方奥武殿内は尚穆王の次男の家系である浦添御殿の分家であった。つまり、両家は同じ尚穆王の血筋で、義村朝明(奥武朝明)と義村王子朝章は又いとこ同士だったわけである。つまり、血筋が近いので、義村御殿の養子になったわけである。

もっとも義村王子朝章も実は尚灝王しょうこうおう(在位1804 - 1834)の六男で、義村御殿へ養子に入ったので本当の又いとこ同士だったわけではない。この辺の事情も説明しだすと長くなるので端折るが、いずれにしろ、義村御殿と浦添御殿は同じ尚穆王の血筋でいわば「兄弟御殿」の関係にあった。そして、奥武親方朝昇の六男、奥武朝忠もやはり跡継ぎのいない浦添御殿へ養子に入るのである。彼がのちの浦添朝忠である。浦添朝忠は「浦添朝忠 ―糸洲安恒の先駆者―」で述べたように、私立学校を設立し、糸洲安恒に先駆けて空手を学校で教授しはじめた人物である。

義村朝明と浦添朝忠はともに頑固党の首領であったが、この二人は実の兄弟だったのである。そして、この二人の母親の思戸の父、松嶋親方朝常は本部御殿五世、本部按司朝救の次男であった。したがって、二人とも本部御殿と血縁関係にある。系図にすると以下の通りとなる。


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そして、義村朝明の妻と本部朝真の妻はともに伊江御殿の伊江王子朝直の娘であった。


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御殿(王家分家)は廃藩末期には二十数家あったが、明治以降の空手史で登場するのは、義村御殿、浦添御殿、本部御殿の主に三家である。そして、この三家は互いに近い血縁関係にあった。

思うにこの三家が武術を重視したのは単なる偶然ではなかったのであろう。特に義村御殿と本部御殿はともに首里赤平町(当時は村)にあって道を挟んで向かい合っていた。義村兄弟と本部兄弟は年齢も近いので、互いに空手を練習していたかもしれない。このように、血縁や近所関係を調べることで、空手や古武道の繋がりが浮き彫りになることもある。


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