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浦添朝忠 ―糸洲安恒の先駆者―

2019年9月13日、糸洲安恒いとすあんこうの新たな写真が発見され公開された、というニュースが琉球朝日放送のウェブサイトで配信されていた。言うまでもなく、糸洲先生は、空手を沖縄県下の学校で初めて教えた人物である。それまで空手は士族のための武芸で、その教授法も師匠が弟子にマンツーマンで教えるような形式であった。糸洲先生は従来の空手の秘密主義を打ち破り、大衆に公開したわけである。


空手を教える私立学校

しかし、実は糸洲先生よりも先に、「空手の大衆化」を図った人物がいる。それは、旧琉球王族で浦添御殿うらそえうどぅんの当主であった浦添朝忠うらそえちょうちゅう(1848-1908)である。彼について述べた明治31年(1898)の新聞記事があるので、以下に引用する。

頑固の児童教育
教育の必要は流石の頑派連も多少気がついたと見え、以前より同臭味の者共を語らい、桃原なる浦添朝忠氏(旧按司家にして久しく清国に滞留し、近年帰県せし同派の首領株)の邸内に集会し、七、八歳以上の学齢児童を勧誘し、盛んに漢籍(四書類)、算術、習字、唐手(支那流の柔術の?)などの諸科目を教授せり。講師はいずれの馬の骨やは知らされどもに、2、3名ばかりもある由にて、生徒もまた五、六十名以上あり。勿論これは例の門閥階級を棚に上げて士農工商いずれの子弟も入学せしむる規程なりと云う。また勉めて子弟の歓心をを買はむ為ならむか時々腰弁当などを提げて景色好き場所へ引卒し運動会、遠足などの企てもありといえば、常に彼等にありなれたる飲み喰い一方の会合とは些かと調子の趣向というべし。

『琉球新報』明治31年6月13日

現代語訳:
頑固党による児童教育
頑固党の連中も教育の必要性について、さすがに多少気づいたようで、以前より仲間と相談して、桃原町の浦添朝忠氏の邸内に集会して、7、8歳以上の学齢児童を勧誘して生徒を募集している。浦添朝忠氏は旧按司家の者であり、久しく清国に滞在し、近年沖縄へ戻ってきた。彼は頑固党の首領の一人である。頑固党の連中は、さかんに漢籍(四書など)、算術、習字、唐手(中国風の柔術?)などの諸科目を生徒たちに教えている。その講師たちは素性もわからない者たちであるが、講師の数は2、3人ほどいるそうである。生徒もまた5、60名以上いる。もちろん、入学資格は上流階級に限定されたものではなく、士農工商に関係なく、いずれの身分の子どもたちでも可能との規定であるそうである。また、子どもたちの歓心を買うために、時々弁当を持参して、景色のよい場所へ引率し、運動会や遠足の企てもあるそうである。これは頑固党の連中のいつもの飲み食いの会合とは異なった趣向というべきである。

以前、上記の翻刻された記事は読んだことがあったが、改めてドイツのアンドレアス・クヴァスト先生からオリジナル記事のコピーをいただいたので、この機会に現代語訳を添えて浦添朝忠の功績を紹介しておきたい。

浦添御殿の墓

当時の琉球新報は、頑固党と対立する開化党の新聞社であった。頑固党は琉球独立を主張するグループ、開化党は日本への併合を支持するグループである。開化党は頑固党を時勢を理解できない頭の固い連中として痛烈に批判していた。浦添朝忠はその頑固党の中心人物の一人であった。

それゆえ、この記事でも、彼の行いは中傷気味に扱われている点は注意する必要がある。記事によると、浦添朝忠は自宅で一種の私立学校を開いていた。頑固党は日本政府が設立した「皇民化教育」を行う公立学校に反対の立場だったので、このような私立学校を開いたのであろう。生徒は5、60名以上いて、空手(唐手)も教えていた。

この私立学校以前に、このような大人数相手に空手を教えることは、沖縄では行われていなかった。糸洲先生が沖縄県中学校で空手を教え始めたのは明治38年(1905)1月である。浦添朝忠はそれより7年以上前から空手の大衆化を図っていたわけである。

浦添朝忠は、空手の歴史では、一部の研究者以外には知られていない。沖縄史の分野でも、彼は時代遅れの人物としてしばしば否定的に取り上げられる。しかし、空手の大衆化を行った最初の人物として、正しく顕彰されるべき人物である。

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