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琉球の弓術

琉球王国時代の沖縄に弓術があったことは、あまり知られてない。例えば、本部朝基の『私の唐手術』(1932)には、玉城(たまぐすく)親方は馬術が得意で、さらに「弓にも長じてゐた」との記述がある(88頁)。この玉城親方は、豊見城親方盛綱(1829 - 1893)と同世代だったというから、糸洲先生と同じか少し年上くらいの人だったのであろう。

また、冊封副使として琉球を訪れて、帰国後『中山伝信録』(1721)を著した徐葆光(じょ ほこう)は、その著書の中で琉球の人が弓を射る図を掲載している。

弓の長さは7尺余りと書かれているので、中国尺(1尺=32cm)だと約224cmの長さになる。上の図を見ても、射手の身長より弓のほうが長いのでおそらくそれくらいだったのであろう。

中国の弓は一般に短弓であるので、琉球の弓は日本式の長弓(和弓)だったことがわかる。Wikipediaによると、和弓の標準的な長さは七尺三寸(約221cm)なので、琉球の弓とほぼ同じ長さである。

しかし、中国から冊封使節がやってくると、こうした武器類は徹底的に隠して平和な国琉球を印象づけたと思っていたのだが、そうではなかったのであろうか。また、和弓と同じ長さの弓を見たら、中国の人々は違和感を覚え、薩摩による支配に気づく恐れもあったと思うが、当時の琉球王府はそこまで考えが回らなかったのであろうか。いずれにしろ、徐葆光が記録を残してくれたのは貴重である。



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