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糸洲安恒の住居

糸洲安恒の住居について、空手史研究者の金城裕は『唐手から空手へ』(2011)で、以下のように述べている。

糸洲安恒は、明治30年(1897)前後の数年間、伊江男爵家の墓地と馬の管理をしておられた。この墓地は、旧首里地区(現在の那覇市首里石嶺町)の郊外にあって、住まいも墓地にあった。筆者の推量であるが、当時の師範学校生や中学生、一般の青年たちも数多くこの住まいに通って「首里手」の指導を受けていたようである。

323頁。

石嶺町は、昔は首里ではなく、隣接する西原町(旧・西原間切にしばるまぎり)に属していた。ここに御殿山うどぅんやまと呼ばれる小高い丘があって、そこに伊江御殿墓があった。伊江御殿いえうどぅんは第二尚氏王統第4代、尚清王(在位1527年 - 1555)の七男を祖とする琉球王族で、琉球王国滅亡後は、男爵になった家柄である。本部朝基の母は伊江御殿の出身であった。

上記引用によると、糸洲先生の住まいはこのお墓の中にあったと書かれている。お墓に住まいがあった? 不思議に思われる方もいるかもしれないが、伊江御殿墓は王族の墓なので、もともとの敷地は2000坪(6612㎡)くらいはあったはずである。それゆえ、その敷地の中に糸洲先生の住まいがあっても不思議ではない。

琉球王国時代、王族墓である御殿墓には、墓守(御墓番)の家が付属していた。お墓を泥棒から守るためである。下の写真は浦添御殿の墓と墓守の家の写真である。

浦添御殿の墓と御墓番の屋敷の航空写真(1945)

2019年9月、糸洲安恒を研究するドイツのトーマス・フェルトマン(Thomas Feldmann)氏が来訪された。フェルトマン氏から伊江御殿墓について質問があったので、私は彼にその場所を教えた。その後、フェルトマン氏はこのお墓を訪ねたそうである。そのときの動画がFacebookにアップロードされているので、フェルトマン氏の許可を得て、下に紹介する。

I also attach great importance to see authentic locations and to visit places where Anko Itosu also had set his foot on...

Posted by The Ankô Itosu Biography by Thomas Feldmann on Tuesday, September 24, 2019

ところで、本部朝基も、糸洲先生の住居に関して、仲宗根源和編『空手研究』(1934)のインタビューで語っている。しかし、彼によると、糸洲先生は、伊江御殿墓ではなく、伊江男爵別荘イーウドンヌハルヤーに住んでいた。いずれが正しいのであろうか?

別荘(ハルヤー)とは現在の伊江御殿別邸のことである。実は伊江御殿の別邸とお墓は昔は隣接していた。下は明治時代(1868-1912)末期の石嶺町の地図である。

ピンク:伊江御殿別邸
青:伊江御殿墓
緑:伊江御殿所有の畑

上記のピンク、青、緑の箇所はすべて伊江御殿の所有地であった。糸洲先生は、おそらくこの広大な敷地のどこかに住みながら、伊江御殿の別荘とお墓を管理していたに違いない。

実は別荘の敷地の北西に「番人」と書かれた家がある。

この家がおそらく糸洲先生の住居だったのではないであろうか。下の写真は、現在の伊江御殿別邸の同場所にある住居の写真である。

伊江御殿別邸、2022年、筆者撮影。

ここは現在は伊江記念館になっている。知花朝信先生や摩文仁賢和先生も、ここに通われて空手の稽古をしていたにちがいない。したがって、この場所は、沖縄県師範学校や旧制沖縄県中学校の跡地と並んで、「近代空手発祥の地」の一つであるとも言えるであろう。

出典:
「糸洲安恒の住居」(アメブロ、2019年10月27日)。

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