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ウフクン

最近(注:2017年)、空手の型の映像をいくつか見返している。先日、「糸洲安恒の改変」の記事を書いて以来、これまであまり研究してこなかったナイハンチ以外の型の変遷に興味をもつようになった。

それで、そういえば、昔上原清吉先生から宗家に送られてきたビデオテープの中に空手の型が含まれていたなとか、10年程前に本部家の縁者の元弟子の方から参考にしてくださいと、本部家由来の空手の型のビデオテープを送ってもらったなとか、そういったものを今回取り出して、改めてじっくり見た。

今日も、以前見たウフクンの動画を見返していた。ウフクン(大君)というのは、古流のクーサンクー大のことで、それを省略した言い方である。上原清吉『武の舞』(1992)に以下の記述がある。

大正12年、首里城の南殿の舞台で行われた空手演武大会では、朝勇先生のいいつけで『ウフクン』の型を演じました。
(中略)
また翌年の大正劇場での演武も『ウフクン』の型を演じました。このように一般の人々が集うような演武会などでは、朝勇先生は御殿手をできるだけ公にしないように注意されていたのです。

102、103頁。

『糸洲十訓』に組手(入り受け外し)や取手には口伝が多いと書かれているが、「対人技法」は秘伝のため、上級者にのみ口頭で実技指導を伴いながら伝授された。それゆえ、公開演武で掛け手や取手を披露するわけにはいかない。本部御殿手の技法の大半は対人技法のため、すると、公開できるのは無難に唐手の「型」ということになる。

上原先生は、朝、昼は本部朝勇先生から本部御殿手を習ったが、夜は兄弟子たちが出席する唐手の型の稽古に参加して、ウフクンほかいくつかの型を朝勇先生から習っていた。

ウフクンという呼び方は、今日では本部流以外は使わないようだ。御殿言葉(宮中言葉)の一種だったのかもしれない。首里言葉も階級によって幾層にも分かれていた。

ただ少林流松村正統では、「ウフクーサンクー」という言い方をするようだから、昔は「クーサンクーだい」と言わず、「ウフクーサンクー」と言っていたのではあるまいか。それの短縮形がウフクンである。

上原清吉、昭和38(1963)年。

ウフクンを糸洲系統のクーサンクー大の動画と比較して、どの箇所を糸洲先生が改変したのかおおよそ知ることができた。

ほかにもいろいろな流派のクーサンクー大を見比べたが、意外にも一番ウフクンに近かったのが、松濤館の観空大(旧・クーシャンクー大)である。

もちろん、今日の観空大は足幅などはずいぶんと改変されているし、テンポも異なっている。しかし、全体を通して見ると、ウフクンによく似ている。

船越義珍先生の型の大半は伝系が不明であるが、この観空大は安里安恒より学んだものだと言われている(注1)。だから、糸洲先生の改変の影響が小さかったのであろう。

しかし、子細に見ると、まったくの安里伝ではなく、一部は糸洲先生が改変したと思われる箇所も含まれている。その意味では、観空大は安里-糸洲伝のハイブリッド型と言うべきなのかもしれない。

ただ船越先生が糸洲先生に師事したかについては議論がある。型の特徴やレパートリーを見ても、生粋の糸洲門下と比べると、異なる点がある。糸洲系統では一般的ではないセーシャンやワンシュウは誰から学ばれたのであろうか。

いずれにしろ、船越先生の型には師範学校で教えられたような、典型的な「学校唐手」とは異なる点があり興味深い。このように案外、本土流派の型に沖縄にはない古流型が残っている場合もある。大阪にも、戦前沖縄から出て来た旧士族階層が伝えた古流型がいくつか残っている。宗家の近所にも、戦前は御殿や殿内の出身者が住んでいた。そうした人たちが伝えた型は、糸洲先生の改変の影響を免れていたりするのである。

注1 儀間真謹 (編集), 藤原稜三 (編集)『対談 近代空手道の歴史を語る』ベースボールマガジン社、1986年、86頁。

出典:
「ウフクン」(アメブロ、2017年3月28日)。note移行に際して加筆。



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