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よくわかるMOD入門 コメント&応答

4月16日にぬかるみ派の方々にお招きいただき、トークイベントをしました。

予想以上に多くの方に参加していただき、たくさんのコメントや質問をいただきました。Googleフォームに投稿していただいた方もいらしたのですが、その場でお答えすることができなかったので、ここに応答を掲載したいと思います。
※ コメントの掲載に関して問題がありましたら、ご連絡ください。

発表スライドは、こちら↓
飯盛元章「よくわかるMOD入門─破壊の形而上学へ

コメント01

破壊の後のちいかわのハチワレ「なんとかなれーッ!」(結果なんとかなる)やフィッシャーの資本主義リアリズムへの乗り越え(なんか良さげなポスト資本主義)も、基本的には現世を生きる人間にとって(ハチワレたちにとって)良さげな展開という例で、言い方が悪いですが都合の良い展開という感じがする。その前のスライドで仰っていた通り、良いか悪いか(もちろんそれは現世倫理基準なわけですが)はなってみないと分からないフィフティーフィフティーな以上、例えばヒトラーよりも強力で最後に自殺しないような(現世の価値観では)ろくでもないの極みみたいな人間が現れて支配しないとも限らないとは思いました。

応答

ありがとうございます!
おっしゃるとおり、「神なしワンチャン救済」は、いまのわたしたちにとって圧倒的に「良い」状態が勝手に到来するという可能性を表現したもので、そこには倫理的な価値観が入っています。もちろん、いまのわたしたちにとって圧倒的に「悪い」状態が勝手に到来するという可能性を表現した、「神なしワンチャン破滅」についても語る必要があります。さらには、いまのわたしたちにはまったく想像できないがゆえに、「良い」とも「悪い」とも判断ができないような事態が到来する可能性もあると思います。

「神なしワンチャン救済」は、たんに楽観的な救済の可能性を示すことを目的にしているのではなく、むしろ、エネルギッシュで主体的な人間たちを意気消沈させるということをひとつの目的にしています。人間たちが議論をして、連帯し、意志し、努力し、活動することによってこそ、この世界はより良い方向にアップデートされる、という発想があるかと思います。人間のこうした能動的な主体性を「がっかりさせる」という効果が、「神なしワンチャン救済」にはあります。
あなたの主体的な努力とは無関係に、あなたの求めていた状態(あるいはそれ以上に良いもの)が勝手に到来する可能性がある。その可能性を受け入れることができるかどうか。もしNoだとすれば、たんに努力したり活動したりすることそのものが好きであった、ということになるでしょう。

コメント02

ご発表ありがとうございました。とても面白く聴きました。
質問なのですが、「破壊」は動詞的でありつつも主語的でもある可能性はないのだろうかと思いました。つまり、「破壊」はランダムな全能性において一元的な介入を許される特権的地位にありますが、「破壊」に「破壊」がもたらされるような状況は生じえないのでしょうか。

また、彼方から到来する「破壊」を待つのは、いつもの生活に少しずつの差異を見つける一般的な倫理観と態度において何が違うのでしょうか。「再帰的無能感」の中で「破壊」の到来を神のように信仰し続ける状態は、宗教的なのではないでしょうか。

応答

ありがとうございます!
一点目について。発表のなかで、もう少し「破壊性」について補足する必要があったかと思います。ぼくは破壊性を「主語的」・実体的なもの、ひとつの形而上学的装置のようなものとしては想定していません。発表では、絶対的偶然性・破壊性に関して「全能な力が、世界のあらゆる存在に浸透している」と表現しましたが、破壊性をもっと「薄い」ものとしてイメージしていただけると良いと思います。〈破壊性 = 現在の状態を必然的なものとして維持しつづけることのできなさ(維持する力のなさ)〉という感じです。「全能の力」と表現しましたが、より正確にはむしろ「力のなさ」と表現したほうが良さそうです。維持する力がないので、つぎの瞬間にまったく別様なものに変化してしまうかもしれない。そうした「力のなさ」という性質・あり方があらゆる存在に刻印されている、というイメージです。なので、破壊性は、それ自体で存立する特権的な装置・原理のようなものではないです。
この破壊性が、ご指摘のとおり、さらに破壊を被って別様になってしまう、ということは考えられると思います。

二点目について。破壊の必然的な到来を予言したとしたら、おっしゃるとおり宗教になってしまいます。しかし、MODが提示するのは、〈現に存在する世界は別様になってしまうかもしれないし、ならないかもしれない〉という純粋な可能性です。MODは、純粋な可能性の提示に留まっているという点で、宗教とは異なります。
また、退屈の解消法という点から言うと、破壊性の発動をワクワクしながら待つ、というところが重要です。わたしたちが現に生きている世界はまったくの偶然的なものでしかなく、(思考不可能なあり方も含めて)いかようにも変化しうる。そうだとすれば、いったいどんな世界に変様しうるだろうか。そんなことを思弁(妄想)しながら破壊の到来を待つ、というのがポイントです。この思弁の試みにおいて、すでにある程度、退屈は解消されることになると思います。

コメント03

4月16日のぬかるみ派のイベントに参加した者です。本日はとても興味深い発表をありがとうございました。途中休憩でイベントからは退席したため、こちらから二点ほど質問させていただきたいと思います。

まず、発表でも言及されていましたが、ベルクソンとの関連についてです。ベルクソンは「予見不可能な未来」を考察した思想家であり、イベントでの言葉を使えば通時的な「断絶」を扱った思想家の一人であると見なすことができるでしょう。しかし、彼が「予見不可能な未来」について述べる際には、「創造」という言葉が使われるかと思います。これは「破壊」と対照的です。質問は、破壊の形而上学において「創造」がどのように扱われるのか、ということです。「破壊」の後に「創造」があるのでしょうか。はたまた「創造」のシステムも「破壊」の対象となるのでしょうか。

二点目は、飯盛さんが昨年発表した論考「闇堕ちの哲学/怒りのダークサイド試論」 との関連についてです。こちらも大変面白く読ませていただいたのですが、イベントでの発表を聞いていた時に、この論考での赦しの議論と破壊の形而上学とが深く関わっているような気がしていました。この論考では、デリダの赦しの議論を通して、最終的には自らも理解できないような境地における赦し、という点にたどり着いていたと記憶しています。そのような赦しに至るためには、それまでの過去の経験からは説明できないような、ある断絶を超える必要があるように思います。それゆえに、ここで何を「破壊」するのかという点はさておき、破壊の形而上学の理論が登場してくるのではないでしょうか。そうすると、質疑応答の際には破壊の形而上学の社会的な側面はとりあえずは考慮しないということでしたが、社会的な側面との結節点も模索できるような気もしています。

長文になってしまいすいません。本日はありがとうございました。

応答

ありがとうございます!
一点目について。創造は破壊のひとつのパターンである、と考えたいです。予見不可能な新しさが創造されるということは、世界のそれまでのあり様が破壊され、劇的に変様することだと言えます。真に創造的な創造は破壊的である、と言っても良いと思います。
これに加えて、MODの破壊性は、ベルクソンが考える創造性さえも破壊的に変様させうるのだと言えます。ベルクソンは、創造に関するある構造を提示していますが、この構造そのものが創造的に変様するとは考えていないはずです。MODの破壊性は、そうした創造に関する構造そのものがまったく別様なものに変化してしまう可能性も含んでいます (たとえば、無変化な世界に変様してしまうとか)。

二点目について。拙論をお読みいただき、ありがとうございます!拙論の最後で示したのは、「絶対許さん!」と思っていたそれまでの主体のあり様が破壊され、とつじょ赦す主体に変様してしまう、という可能性です。ご指摘のとおり、MODの破壊性こそがパラドキシカルな純粋な赦しを到来させうる、といった議論ができそうです。ひとつ大きな宣伝要素が増えました!「神なしワンチャン救済」の事例として、赦しを考えることができるかと思います。

コメント04

昨日はMODのご講演ありがとうございました。ラディカルな質問にも答えていただき、とても興味深かったです。いくつかコメント残させていただきます。

・レヴィナスについて
レヴィナスから断絶→破壊というのが結びつかないという方もいらっしゃいましたが、実は私はとても正統な思考の流れだと感じました。レヴィナスについてはレヴィナス 犠牲の身体という本で始めて意識するようになり、神聖と聖潔を分け、後者を重要視するという考え方はまさに断絶を積極的に捉えようとするものだと思ったからです。

・パラドックスについて
MODが現にということすらも超越して成り立っている時、それは不可知な領域になるので一旦エポケるとして、現にが及ぶ範囲でのMODの例、つまり、可視化可能でしかも既に起こっているMODの例を探すことは実は可能かと思いました。(SFの方向も1つですが)、パラドックスという方向性です。
例えばエレア派が好例でしょう。
あるものはあり、あらぬものはあらぬ
とすれば、無は存在してはならず、隙間が発生しないため、全てのものは1つのものでなくてはならず、大きさはなく、運動も変化もない。しかし、現にそういったものがある。
まさしく、起こりえないことが起こっていると言えるのではないかなと。

・伊藤計劃について
ハーモニーという本をオススメさせていただきましたがブログ記事で良さそうなのがあります。全てが数えられ、予測され、制御しうる世界、それが現実になった時、現実はそのまま仮想現実になるという視点。これはMODが排除された世界こそ実はバーチャルな世界で、生の世界は本来MODが作用するはずなんだという宣伝になるかもしれないです。

制御された現実とは何か
https://itoh-archive.hatenablog.com/entry/2015/09/24/171745

長文になりすみません。また機会があればお話伺わせていただきます。

応答

ありがとうございます!
レヴィナスについて。『レヴィナス─犠牲の身体』を読んでみたいと思います。

パラドックスについて。運動や変化は矛盾を含むから、思考の法則から逸脱した事態である。だがそれにもかかわらず、現に運動や変化は存在する──このこと自体は、とくにMODの好例にはならない気がします(運動のない世界から、運動のある世界に変様したとすればOK)。
もうちょっと普通のことを、強度の低い破壊の例として考えることはできると思います。たとえば、過去に生じた大量絶滅は、地球上のそれまでの生命圏が破壊的な変様を被り、まったく別様になってしまった事例だと言えます。しかし、強度の高い破壊(自然法則や論理法則の変化)の場合には、おそらくその痕跡が残らないので、それがじっさいに生じたとしても、その実例を提示することは不可能です。しかしそうだとしても、実例が示せないからそうした変化は不可能であるということにはならないし、逆に、実例が示せたからといって、そうした変化の可能性の説得力が高まるわけでもないと思います。

伊藤計劃について。破壊性が失われた世界という感じですね。ブログ、おもしろそうなので読んでみます。

研究をしながら、分かりやすい記事をすこしずつ書いていきたいと思います。サポートしていただけると、うれしいです!