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自分の人生自分で決めるという言葉が重荷であるし嘘っぱちである

もう三十路だ。

一時期引きこもりがちだったり、人との接触を避けたり、運が悪かったりで回り道したため、人よりも人生遅れて過ごしてきたっていう負い目がある。みんなが10代で経験したことを私は20代になってやっと経験した。人並みの社交性も最近ようやく身に付いて来た気がする。

引きこもり状態から脱するときには、本当に心を無にしてとりあえず職場という場所に毎日足を交互に出すことで自分を運び出すイメージで行っていた。人との会話もうまく行かないので、変な人だと思われていたと思う。それでも外に出ていって、人と関わっていったお陰で今がある。ネットで「引きこもり 過去 戻らない」とかで検索したりしたこともあった。

周りの頭のいい子は早いうちからパートナーを見つけ、仕事はそこそこに、三十代となった今は子育てと自分の生活をメインに生活している。本当に頭のいい子は子育てしながら自分のやりたいことで稼いでいる。なんにせよ、もう子どもがいたりパートナーがいる。

一方、私は三十路を過ぎてやっと仕事の勉強に一度本気で取り組んでみよう等と考えている。この奮起の中には、現実からの逃避だったり、そもそも結婚すべきという世間の圧力への反感だったり、このまま子どもができない年齢になってしまう不安だったり、そもそも自分が結婚したいと思っていないのではという問いかけだったり、いろいろなものが詰まっている。

大学時代の友人たちが、結婚して子どもを産んで、忙しく生きている姿を見ると、仕事頑張るなんて言い訳してないで、もっと焦りなよ。いつまでも自分のことばかりやってるから子どもっぽいんだよ。なんて声が頭の中にこだまする。

三十路過ぎて結婚する努力をしないで勉強する努力をしようとしている私は間違ってるのだろうか、と思い逡巡していると、そんなこと自分で決めればいい。必要と感じるならそうすればいいし、そうじゃないならしなければいい。何歳になったらどういう姿であるべき、とかじゃなくて、自分で決めてやればいい。という言葉が頭に浮かんだ。

そしてすぐに、自分で決めるって、たいそうオオゴトだなあと思った。決めたくても、迷ってるから。

結局、自分で決めるなんてカッコいいこと言ってても、やり続けたことが形になるだけで、たとえば悩みの中、うだうだとやり続けたとしても取った行動が婚活であれば結婚の方にぼんやり道は開け、勉強に時間をあてる毎日であればキャリアウーマンに少し近づく。そもそもその単純な二択でもない。婚活しながら仕事を努力するという発想が出てこない私は仕事ができない人間だと思う。話がずれたが、つまり決めるとかじゃなく、何を行動として起こしたかしかそこにない。決めなくても、まごついていても、その混沌の中で匍匐前進したことが道になっていくだけ。匍匐前進をしようって、私は決めた覚えもないし、決めてもいないのに、そうやってなんとなくもう決まっていっちゃうのが人生でしょ。

不確定要素ばかりで分からないことばかりなのに、自分の人生なんて自分で決められるかよ。決めようが決めまいが、流れていくのが時間だろうよ。決められないことを、責めてくるんじゃねえよ、わからず屋。私は引きこもった過去を、自分の意志ですべて決めましたなんて到底思わない。性質や環境やあらゆる状況が合わさってそうなり、もがいているうちに気づいたら周回遅れでここに来ていた。嘆いたって仕方がないから、とりあえず私は自分が今いる地点から、前に順番に足を出していこう、といういつもの結論になる。

やることないから暇だからなんとなく勉強するんだよ私は。仕事の不安は努力することでしか振り払えない。不安は毎日をぼんやりと、本当は思い切り努力したいと思っている自分を無視してだらだらするところから発生する。楽は楽しいとイコールではない。

何が言いたいかよくわからなくなってきた。とにかく人生は混沌ということです。

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