SNSでみた「コロナウイルスへの見解」について
※不特定多数の方への批判的な意見を述べています。この記事を読むことで心の健康を害してしまう場合がございます。
※あくまでも、もときりな個人の意見です。
近頃の某呟く系SNSというのは、私が特定した以外のユーザーの発信した情報であっても、「あなたのフォローする人がいいねをした」「あなたのフォローする人が返信をした」などといって、随分と勝手に人の興味を決めつけてきたりする。まあ存外、それを見ることで楽しみを増やしている節もあるのだけれど。
その日みた知らない誰かの呟きも、その「私がフォローする人が返信をした」ものだった。以下、発信した本人の特定を避けるため原文をあえて改変して記載する。
『私はコロナって騒ぎすぎだと思う。風邪やインフルエンザやコロナって変わらないじゃない。でも不要不急の外出はーとか国が言ってる中で、マスクもせずに外で走ったり公園で筋トレするのは、いくらなんでも非常識だよ』
唖然とした。それと同時に、脳みその奥が発熱するような感覚を覚える。それでもその発熱を必死で抑えようとしているのか、指先から始まる全身と私の思考は、酷く冷めきっていた。
でもだめだ、今口を開けば。私の口から飛び出すのは、きっと灼熱の中で打たれたばかりの鋭い刃物のような、攻撃的なものに違いない。冷静を保とうと必死になる私の脳内に、ここ数か月でみた様々な情報が流れてくる。
コロナは騒ぎすぎ?SNSで大量に流れている情報をなにも知らないんだろうか。海外の感染者の一部が苦しそうに咳き込んだりしながら、大量のチューブを身体にさしこまれた状態になりながら、カメラに向かって「甘く見るな」と訴えかけてくるあの動画たちを知らないんだろうか。あの大物芸能人たちが、ある日突然私たちの生活から消えてしまったことを、知らないんだろうか。
もちろんこんな風に現状を軽視するような意見は、残念ながら身近にもある。今までも聞いて唖然としたことは何度もあった。だからあるとき、タイミングがあって思わず声に出してしまった。
「どうしてこんなに、危機感がない人がいるんですか?」
すると返ってきた答えはこうだった。
「想像力が、ないんでしょうねえ」
外を出れば感染者がいるかもしれない。それが自分に感染するかもしれない。自分は無症状でも、これから会う人や家にいる家族に感染して、
誰かが、死んでしまうかもしれない。
死んでしまえば会えなくなる。話しかけたって返事はないし、触れようとしたってその身体はどこにもない。もちろん体温だってなくなる。
「最後」の瞬間は、ある日突然やってくるものだ。
どうしてこれが、想像できない?
身近に死を体験したことがないからだろうか、と考えてみる。特に若い世代であれば、大いにあり得るだろう。
そのとき、偶然同居人が動画配信サービスをつかって、有名なアニメ映画を観ていた。背後からその様子を見ていると、それに気づいた同居人がこちらを向く。
「この話、観たことある?」
「ううん、ない。そもそもこのシリーズ一回も観たことない」
「うそやろ!?これは絶対観なあかんで」
もう随分と長く続くこのアニメ映画シリーズを、一度も観たことがないというと大体驚かれる。それくらい誰もが馴染み深く、身近なものなのだ。まあ折角だからと、私は同居人の隣に座って一緒に画面を眺める。
物語は幼い主人公の父親がある日突然、怪しげな組織にロボットに変えられてしまうというもの。ところが途中から生身の父親も現れて、ロボットは実は記憶をコピーされただけの存在だということが判明する。2人になってしまった父親たちは最初いがみ合ってばかりいるが、そもそもの黒幕である怪しげな組織へ立ち向かう中で、少しずつお互いを認め合っていく。
その最後には、黒幕との闘いでロボットの父親が再起不能になってしまう__死んでしまうのだ。
そういえば、と思う。私たちの生活に寄り添うように存在するドラマやアニメ、映画などの映像作品で、「人の死」を扱うものは決して少なくはない。それらを観て涙する人たちは、「人の死」を身近に感じたり共感するからではないのか。そう考えれば、決して実際に身近な誰かが亡くならずとも、「人の死」を想像することは容易いことではないのか。
私はその日の夜__SNSの呟きをみて、映画を観終えたその日__眠りに落ちる前に、改めて自分の思いを声に出しながら、泣いた。どうしてかは、分からなかった。それでもそんな私を見て、慌てふためく同居人を落ち着かせるために「悲しいのだ」と、とりあえず言葉にした。
感染し、苦しい思いをしながらカメラに向かって語りかけた人。ある日突然、大事な誰かを失ってしまった人。いつか失ってしまうんじゃないかと、必死で助けを求める声をあげる人。批判があることや現状を十分に承知の上で、通勤を余儀なくされる人。
そんな傍で、なんの危機感もなく外に出て日常を過ごす人がいる。なんならいつもよりも人が少ないからと、いつもは行かないような遠い場所へ足を運ぶ人がいる。
その理由が「想像力の欠如」なのだとしたら、本当に悲しくてやりきれない。
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