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「文字」という表現を選ぶ理由と、こだわりについて

 先日、友人に誘ってもらって、雑誌『IWAKAN Magazine』の個展に遊びに行った。この雑誌については、次を読んでほしい。

2020年10月創刊。違和感には答えがない。でも、私が感じている違和感を誰かと話したい。そんな世の中の当たり前に”違和感”を感じるすべての人たちと共に考え、新たな当たり前を共に創造していくインディペンデントマガジン。アートエディトリアルからアカデミックな対話まで幅広く収録し、ジェンダー、セクシュアリティ、性別二元論のイシューを軸に、ユーモラスかつ真剣に向き合っている。編集チームを中心にジェンダー表現や表象のために活動するメンバーが集まり、コンテンツや議論を発信中。

公式サイトより引用

 私自身、この雑誌の存在を以前から知っていたわけではない。そもそもの誘ってくれた友人が、前日にカフェで偶然知り合って意気投合したばかりという……まぁ要は、個人的にめちゃくちゃ短期間に情報を一気に詰め込まれた個展だったわけだ。

 今回の個展は、最新号である『IWAKAN Volume 06 特集 男性制』の発刊に際して開催。なので、最新号のテーマであるさまざまな「男性制」を表現する作品が並んでいた。

 それらの作品を、乱暴に言葉でまとめてしまうならば「色んな人たちが撮ったり描いたりした写真やイラスト」(本当に乱暴でごめんなさい)。
でもその1人1人が、題材とするもの、描きかた、撮りかた、撮られかた__見せかたというか、表現方法が違っている。


 その中で、私はふと思った。どうして私は、数ある表現方法の中から「文字」を選んだのか。

 幼い頃から、絵や写真、映画、アニメ……色んなものに触れてきたはずだ。実際に、音楽を好きになって、歌ったりギターを弾くことはあるけれど、今の私の主な表現方法ではない。
また私には、朗読という、「声」を使った表現方法もあるけれど、これも「文字」ありきのものだ。台本がなければ、成立させることが難しい。


 私が「文字」を表現方法として選ぶのは、それが最も、「分かりやすいから」だと思う。

 私には、「自分が見たものや感じたことを"明確に"相手に伝えたい」という思いが強い。少しでも明確に相手に伝われば、相手の記憶として(ひょっとすると影響を与えるものとして)__私自身を残すことが出来る。


 つまり、この文字を読む誰かの記憶を介して__私は、生き続けていたいのだ。

 だから分かりにくい、読めない文字や文章にはならないようにと、常に意識をしている(私自身のペンネームが全てひらがなであることも、そういった理由からだ)。
色んな解釈が出来るような表現も、できるだけ使わない。移ろう時代の中で変化していく言葉も、「今」の人たちが認識している意味合いのものを使う。決して自分の知識に偏った内容にならないように__とは言っても、私自身がそれほど広く知識を持っているわけではないので、自然と偏ってしまっていることはあるんだろうが。



 ただそもそも、私が日本語でしか書かない以上、日本語を読める人にしか伝わらないのだから。本当に生き続けようと願うならば、この文章を多言語に翻訳するべきだよなぁ。

 個展会場にいる間、耳に入ってくる英語やフランス語などの単語を耳で拾いながら、私はそんなことを考えていた。

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