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あたりまえという罠

心理療法をするにあたって心に深く刻み込んでいたものがある。

「罪なきもののみ石持て打て」
有名なイエスの言葉だ。

姦通の罪と人々の罪は同じではないので、論点のすり替えであるということも承知の上であると断っておく。

ではこれはどうだろう。
「私ならそうしてほしいから、それをした」「自分がして欲しくないことはしない」の逆である。

経験的に、「あなたはそうかもしれないけれど、相手は違うかもしれない」という視点の弱い人、もしくはない人が「間違ってない主張」をする時に使うことが多いように思う。

「相手には相手の世界がある」
これもあたりまえだとみんな知っているのに、いざとなるとすっ飛んでしまう。

「相手の世界はおかしいんですよ」
そうかもね、けれどそれだって諸手を挙げてそうだとは言えない。

君の世界から見たらね。
常識、普通とか輝きとかだけ見たらね、である。使命とかやりがいという言葉に惑わされるな、である。

再び断っておくが、相手の世界に凶悪な犯罪などぶっ飛びすぎは含まない。
容認しているわけではない。

生きずらいながらも何とか社会に適応しながら毎日を過ごしている人に対してたとえ常識外れであっても、その身を持ち崩しているように見えても、彼らの生きづらさを、そのありようを修正した方がいいと考え働きかけることに私の頭の中で「罪なきもののみ石も持て打て」のイエスの言葉がよぎる。
「自分が正しいとどれだけ思ってんねん」「あんた何様やねん」という関西のおばちゃんが脳内に登場し冷静さを求めてくる。

その生きづらいありようは生育過程、自己評価の低さ、他者承認欲求、歪んだ愛情である、、とありがたい思いやりと優しさが結論づけ修正しかけようとする。

余計なお世話かもしれないと頭の片隅に置いているのだろうか。
タイミングもある。相手との関係性や信頼の度合いもある。相手の痛みは想像以上であったりする。
傷が深すぎて痛みが強い時に、まずその痛みをやわらげるではないか。
いきなり麻酔なしで切ったり貼ったりしない。

狂っているように見えたとしても相手を傷つける権利は誰にもない。平気であるから何を言ってもいいのではない。傷つかない訳でもない。

その正義が相手を傷つけるかもしれないと少しでも想像してほしいのである。

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