心の中に戦友を持つ

ゴールデンカムイで記念すべき第100話にあった杉元の言葉
「日本に帰ってきても元の自分に戻れない奴は心がずっと戦場にいる」
という言葉は原作が完結してもなお忘れられない言葉です。

「自分の心はどこにいるのか」

糧になる出来事もあれば枷になる出来事もありました。その出来事のひとつひとつが自分を構築しているのですが、辛かったことや後ろ暗い感情は見て見ぬふりをしたり忘れようとしたりするものではないでしょうか。それがとりわけ自分に必要な存在との間に起きてしまったものであれば、自分のためにも隠すしかありませんでした。その悲しみを伝えて拒絶されてしまえばなおのことです。

「不相応な感情と現実との剥離」

抑圧された感情はふとした時に戻ってきます。傷ついた時、相手に不快感を抱いたとき、自分が失敗をしてしまった時、過去の抑え込んだはずの感情が反射するように出てくるようになりました。心に蓋をしようといているうちに、身体から溢れ出てくるようになりました。私の身体は成人を前にして感情により崩れ落ちるようになってしまったのです。

「心に気が付いた時の孤独」

私の身体が崩れ落ちるようになった後、私は抱えていた感情の抑圧に気が付くことになりました。気が付いてからは調べて知識を身に着けようとしました。自分の身に起きていることが過去の記憶からなる反応であると知ることが出来た時には、自分の神経レベルの反応を解決する難しさを知り、そして一般的な価値観に私はそぐわない人間であると知って悲しみました。

「一人ぼっちの悲しみの支え」

最初は人と悲しみを共有することも考えました。当然ながら自分と全く同じ人生を歩んだ人などいないので、相手の幸福を見ては妬み、相手の不幸を見ては自分の非力さを責めました。他者を自分を批判するために利用されてきた私にとって、人というのは自分にとってハリネズミそのものだったのです。

物語として境遇を曝け出したキャラクターの痛み悲しみは、私の孤独な悲しみが一方的に縋ることを批判しないでいてくれますし、他者の名前を利用して批判することにも利用されません。自分の悲しみを処理できない代わりに、そのキャラクター達のことを思って涙を流すことは、自分を許せず愛せない私が代わりに感情を少しずつ吐き出させてくれました。

「キャラクター達が常にいた人生」

今も私は記憶に苦しみ、薬で記憶を薄めながら、それでも身体が反応しないように人よりは不自由な生活をしています。自分の取り返しのつかない悲しみよりも、キャラクター達の悲しみに浸ることを続けています。物語を読んでいると、たまに力を貰って、頑張って自分の悲しみに取り組もうとするのですが、今でも返り討ちをされてしまいます。そのたびに涙を流しています。他にもあらゆる感情の時にキャラクター達は支えになりました。私の過酷な時間を共に生きたキャラクター達は、私にとっては今でも戦友なのです。

「心の中に戦友を持とう」

貴方は知っている人の名前と知っているキャラクターの名前のどちらが多いでしょうか。私はいつも知っているキャラクターの方が多い人生を歩んできました。キャラクターは良いものです。引っ越しても離れ離れにならなくて、物語が完結すれば変化することはありません。好きとも嫌いとも言われることもありません。もし貴方の中に変わることなくあり続ける悲しみがあるのであれば、その悲しみが共有できる存在を物語の中に見つけておくといいのかもしれません。完結した物語の中で見つけることがおすすめです。貴方の戦場の孤独が少しでも癒えますように。

#大切にしている教え

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