私は長崎にある鬼ヶ島の子孫

現在バービー人形の映画が炎上している。その様子を見た日本人が、原爆でボロボロになったマリア像の姿を見せてやればいいと言っていた。私の母方の実家も長崎であり、母もキリスト教徒だったので、全くの他人事と言うわけではないのである。私の祖父は炭鉱夫だ。祖父は炭鉱で働いていたから声が出ないらしく、私は祖父の言葉を一言も聞いたことがない。祖母は熱心なキリスト教徒だったようで、キリスト教の祭壇に向けて何かを呟きながらお祈りしていた。マリア像を見るとそんな祖母の姿を思い出させる。祖母も理由を知らないがあまり話さない人だった。家には優しい叔父がいた。優しい叔父は映画館に連れてってくれた。叔母はあまり喋らないけど、大きくて立派なドールハウスを私に譲ろうかと気にかけてくれた。お正月の伊達巻を美味しくて勝手に食べた私に嫌な顔一つしない人たちだった。

私の母は末っ子であるが、子供が友達と喧嘩をすれば子供を家から追い出し、近所の人との食事会では人目を気にしてひたすらマナーについて怒鳴り散らし、子供がいじめにあえば加害者側を褒め、子供には人に不満を持つことさえ許さない、道徳や倫理を気にしすぎて道徳や倫理で人を苦しめ家族を世間体の奴隷であると思っていそうな壊滅的な人間だった。他の家族は誰とも母と会話することが出来なかった。自分で結婚したはずの父でさえ会話が出来なくなったので、私に任せる始末だった。当時の私はなんとか母とやりとりをしようとしたが、全く上手くいかなかった。私と妹は精神疾患になった。何度か自殺未遂もした。母は人に迷惑を掛けて馬鹿じゃないのと笑っていた。その頃叔父まで精神疾患になったと聞いたので、そういう遺伝子なのだろうかと悩ましくなったし、あんなに優しい叔父まで病に掛かってしまったことに驚いた。結婚して家を出た頃、自分が母から虐待されていたことを人から言われて知った。

ある日、私は夫と映画で見た永遠の0の感想を話していた。自分の祖父は戦時中はこういう役割だったけど、私の祖父はどうだったかと聞かれた時に、私は祖父が炭鉱夫だったことを思い出した。子供の頃に炭鉱夫と言われれば白雪姫の7人の小人が浮かんだが、今は違う。私は母の故郷の名前で調べ、その島が鬼ヶ島と呼ばれていたことや、先祖が隠れキリシタンの可能性があることを知った。先祖は元々地主だったけど三菱に譲ったという話や、大金持ちだったのに1代で全国の遊郭を渡り歩いて祟られたのでお祓いした話まで事実かは知らないが、自分の遺伝子は何度も危険な目にあったという事実だけはわかった。

私はその後に父に祖父や祖母は昔はどんな人だったのか聞いた。すると父は「結婚の挨拶はしに行ったけど、ずっと妻のお兄さんが話してくれてね、妻のお父さんとお母さんは何も話さなかったよ」と言われた。祖母まで話さないし筆談でもないとなると只事ではない。奇妙なのは母に聞いた時のことだ。母は祖母と話しながら料理もして和やかな結婚挨拶をしたという。父と母で意見が食い違っているのだ。母に父と言ってることが違うと言及したらそんなことないと言われて電話を切られてしまった。

祖母の印象は正直に言うと悪い。言葉を交わしたことのない祖母にそう思うのは母から「私の時は育児に飽きられていた」「朝ごはんにトースト一枚しか作ってくれなかったから私は頑張って作ってる」「日曜日の礼拝さぼったら別人のように怒られた」など悪い話ばかり聞かされていたからだ。「母は社交的でマドンナのような人」「とても美人だった」という客観的な褒め方はしていたが、子供が親を見た時の言葉として褒めている言葉は1つも聞いたことがない。母に祖母がどんな人間が改めて聞こうとしたが「私はそんなこと言ってない」「私のお母さんを悪く言わないで」と大号泣で電話を切られた。母はもう自分の言ったことさえ覚えていなかった。

私に残ったのはこの混沌とした遺伝子と、トラウマの記憶と、母に対する憎悪だけである。トラウマが遺伝するのであれば、私は精神疾患になるべくしてなってしまったのだ。そのトラウマが原爆があったからなのか、炭鉱で働かされていたからなのか、幕府から隠れていたからなのかはわからない。原爆で死んでいった人たちの中にも、恐怖と信仰の中で辛うじて生きてきた人たちがいたのかもしれない。広島よりも長崎が原爆被害の言及が少ないのは、長崎という場所が、元より孤立感や無力感が続く土壌であるからなのではと考える。原爆で多くの亡くなってしまったから、残された人たちはますます共有出来ない孤独に陥っているのではないだろうか。母は誰といても居心地が悪そうで、そういう私も人が語るような居心地よさを体感出来た試しがない。真っ黒なマリア像を見ると、母という存在がどれだけ救いのない存在であったかを思い出す。一体何を信じればよかったのだろうか。

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