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【ア・カインド・オブ・モデスティ・プレジャー】

(この小説は「ニンジャスレイヤー」の二次創作です)

第一話

その日は貴重な晴れ模様だった。ネオサイタマの空事情においては、黒雲か重金属酸性雨、またはその両方が太陽を遮るのが常だ。カネモチ・ディストリクトには多種多様なカチグミ住宅が居を並べているが、年中空を覆う油膜めいた雲にはマケグミ同様に悩まされている。

ジェイドマムシがこのペントハウスを購入したのは、高層より下界を見渡す美しい夜景写真に釣られてのことだったが、それが一年に数日しか鑑賞できない物だということをすっかり忘れていた。気の利かない販売業者は濁った夜景に突き落として殺したが、それで空が晴れるわけでもない。ニンジャと言えど、明日の天気は……そういうジツを持たねば、祈るしかない。ゆえに、今日の彼は機嫌がいい。

天窓から暖かな陽光が差し込み、清潔なアイランドキッチンを照らす。「暴力的な」「奪う」「殺害」……邪悪な美学のショドーが照り返しを受け、奥ゆかしくライトアップされる。室内には料理に勤しむジェイドマムシを含め、三人のニンジャ。客人の二名は高級なソファで歓談している。そこには三者三様の笑顔があり、和やかな休日のアトモスフィアに包まれていた。

「そろそろかな」ジェイドマムシはフライパンに箸を伸ばし、こんがりと焼けた鶏肉を持ち上げた。皮にはいい具合の焼き目がついており、香ばしい匂いが漂う。多少の焦げ目はあるが、それは意図的なもの。「上出来だ」彼は頷いた。

今日の来客は八名。その誰もに最高のテルヤケをご馳走したい。サンズ・オブ・ケオス。サツガイと名乗るニンジャと接触し、ジツを授けられた……神秘体験を共有するニンジャの会。ジェイドマムシもその一員である。

サンズ・オブ・ケオスの輪はネオサイタマに留まらず、海外にまで広がっている。そのため、メンバー間のコミュニケーションはIRCが主。しかし、こうして現実に会合を催し、気が向いた連中で集まることもある。

今日は外国住まいのメンバーもはるばるやってくるという。彼らもジェイドマムシの料理好きは知っている。彼がアップロードした調理光景を見て、「美味そうだ」なんて送ってくれた奴もいる。腕の振るいがいがある。それに、もてなしのしがいもだ。

九人分のテルヤケの用意は骨だが、楽しみはそれに勝る。ジェイドマムシは鼻歌交じりに携帯端末を操作し、下階に取り付けたカメラの確認ボタンを押した。端末に家具も窓も何もない、狭苦しい部屋が映し出される。そこには十人のオイランが押し込められていた。奴隷交換パーティーの品物だ。

彼女らは皆一様に美しいが、国籍と人種にはバラつきがある。各員が、地元の名産品を持ち寄るように、手近なところから集めたからだ。「フーム……ン?」ジェイドマムシは品定めするように見渡し、気づいた。一様に震えて縮こまるオイランたち。その中に一人、毅然としてカメラを睨んでいるものがいる。

「うん?」ジェイドマムシは視線を彼女に留めた。確か、アモクウェイブ=サンが拾ってきた女だったか。ゲイシャ・パンクファッションに着飾らされた、ティーンの少女。どこにでもいる非ニンジャのクズ。それが射殺さんばかりの怒りを込めて、この俺を睨みつけている。ニンジャを。神に愛されしニンジャたるこの俺を!

「ハハハ!」彼は思わず笑ってしまった。「何事です?」ソファからエゾテリスムが尋ねた。ジェイドマムシは返事の代わりに、撮影したスクリーンショットをエゾテリスムへと送信した。さほど間をおかず、そちらからも笑い声が聞こえた。

エゾテリスムは端末をテーブルに置き、写真をデシケイターとシェアして笑っていた。「これは面白い! ご自身の状況を理解されていないのでしょうな」「まったくだ。だが、状況を理解しているとすれば……なかなかの度胸だ。俺は気に入ったぞ」デシケイターは目を細めた。

一方、キッチンのジェイドマムシは調理に手を戻していた。焦がしてしまったら台無しだ。「何事も下準備が大切だからな」ベテラン料理人めいて彼は呟いた。焼き目を付ける時は慎重に行わなければならない。それが出来上がりの質を左右するのだ。これはあらゆる物事にも通じる。そう、どんなことであっても……


◆ ◆ ◆


鶏肉に一通り焼き目を付け、余分な熱が加わらないように皿に逃し終えたころ。「ジェイドマムシ=サン」と後ろから声が掛けられた。振り返ると顔見知りの、縮こまるように背筋を丸めたニンジャの姿。彼も特別な来客の1人だ。「私に何か出来ることは?」メイレインは畏まった口調で尋ねた。

「お腹を空かせておくことかな」ジェイドマムシは笑って答えた。「外でみんな遊んでいるだろう。バスケットは嫌いかい?」「いえ、そのようなことは」「なら、混ざってきたらいいじゃないか」その提案に、メイレインは少し暗い顔で答えた。「私のようなものが」

「またそのヒュミリティか」ジェイドマムシは呆れたように言った。彼の方からスペースに出向いた時は、メイレインはもっと胸を張り、堂々としている。尊大ですらある。しかし一方で、このペントハウスに客人として招かれると、彼はこういう卑屈な調子になってしまう。

寂れた雑居ビル。それが彼のスペースであり、おそらく所有できたであろう唯一の城だ。メイレインは自身について語りたがらないが、いい暮らしはしていないだろうことが言動の端々からも受け取れる。生活ランクの格差に緊張してしまうのだろう。気の毒だ。ジェイドマムシは哀れんだ。

「いいか、俺たちは仲間だ。サツガイ=サンに選ばれた」「あのお方に……!」メイレインはハッと背筋を正し、上ずった声で答えた。「あんまりへり下るんじゃない。みっともないぞ。サツガイ=サンに恥をかかせる気か?」ジェイドマムシは微笑して続けたが、メイレインはもう聞いていなかった。

「あのお方に……おお、サツガイ=サン……我らの……」彼はブツブツとつぶやきながら、酔っ払いのようにフラフラと歩き、ペントハウスを出ていった。やれやれ、いつもの調子に戻ってくれたな、とジェイドマムシは心中で苦笑した。

献身的なメイレインはサンズ・オブ・ケオスのメンバーから愛されていた。IRC-SNSで困ったような発言をすれば、彼はすぐに気を遣ってくれる。今回の”礼拝”を兼ねたブレイコ・ホームパーティーの呼びかけを手伝い、日時のすり合わせを代行してくれたのも彼だ。時折謙遜が行き過ぎて面倒臭いが、それもまたカワイイだった。

広々とした屋上デッキに出たメイレインは、病んだ太陽に直接照らされ、思わず目を細めた。(おお、サツガイ=サン。この太陽はあなたのお導きなのですか)美しい陽光が妄想を深めさせる。輝かしき瞬間の興奮が蘇り、心を震わせた。神の愛を感じる。自分に向けられた愛を。(そうだ、ジェイドマムシ=サンの言う通りだ。俺は美しい。卑下するところなど何もない)悪感情の波がかき消される。

彼は涙ぐんだ目でデッキを見渡し、小さなバスケットコートに四人のニンジャを見とめた。そこでは一つだけのゴールを使った、2on2の試合が行われている。トラップマスターの巧みなディフェンスを抜こうと、その場でドリブルしつつタイミングを見計らうのはエッジウォーカーだ。

「エッジウォーカー=サン、こっちだ!」アモクウェイブがゴール付近に陣取り、ぴょんぴょん跳ねながらパスを回すようにアピールしている。だが、いつでも遮れるように控えているロングゲイトに気づいていない。彼はアモクウェイブへのマークを継続しながら、トラップマスターが抜かれた場合に備えていた。

睨みの効いているアモクウェイブへのパスは難しそうだ。だが目の前のトラップマスターも油断ならぬワザマエの持ち主。強引な突破は逆にピンチを招くだろう。エッジウォーカーは状況判断しつつ、じり、と一歩だけ前へ進んだ。トラップマスターが身構える。吹く風が頰を撫で、じわりと滲んだ汗を払う。勝負だ……!

「イヤーッ!」エッジウォーカーが動いた! 頭上を越すロングシュート! 「何!」トラップマスターは反応できず、ゴールへと一直線に向かうボールを虚しく振り返る!  ボールは……綺麗にネットに突き刺さった! スリーポイント!

「ヤッタ!」「ワンドフォー!」オフェンスの二人がハイタッチ! ディフェンスの二人は苦笑し、スコアボードの点数を書き直した。ボードには既に、モータルが見れば途端に失禁するような滅茶苦茶な点数がマークされていた。何しろ互いにニンジャなので、妨害さえなければ当たり前に得点できるのだ。そして何より、本気の試合ではない。

(二人で一チームか)楽しげな様子を遠巻きに見ながら、メイレインは顎に手をやり、思案した。自分が入れば3on2になってしまい、不公平になってしまう。それでは楽しく遊べないだろう。彼は気づかれないうちに場を離れようとした。「ちょっと待ってくれ」それをロングゲイトが見とがめた。

「メイレイン=サン、そんなところにいないで一緒に遊ばないか?」「しかし、人数が……」「人数?」ロングゲイトは首をかしげた。「不公平になってしまいます」「なんだ、そんなことか」彼は快活に笑い、遠くにいる同胞へ呼びかけた。「増やせばいいさ……ブラスハート=サン!」

バスケットコートから離れたデッキの隅で、沈思黙考する筋骨隆々の男。彼こそがサンズ・オブ・ケオスの創始者、ブラスハートだ。彼は呼びかけに答えなかったが、ロングゲイトは気さくに近づき、肩に手をポンと置いて再び声を掛けた。「ブラスハート=サン、今大丈夫かい?」

ブラスハートはゆっくりと振り返った。ロングゲイトは威圧感を覚えた。焦点を合わせながらも、どこかとおくを見ているような独特の目が、彼を見下ろした。「……何か?」「一緒にバスケットをやらないか?」「断る」彼はにべもなく言った。

「どうしてだい? またサツガイ=サンについて考えていたのか?」「そうだ」「もしかして、また二度目の接触とか……そういう無理なことを考えていたのか」ロングゲイトは呆れたように言った。「フ……」ブラスハートは否定も肯定もしなかった。

「まあ……新たな力が欲しい……飽き足らない……そんな気持ちはわかるがね。ずっと考え込んでても、いいアイデアは出ないよ?」「既にある。後は実践。その機会だけだ」ブラスハートは取り付く島もなかった。「そこをなんとか、頼むよ」ロングゲイトは手段を変えた。「これじゃメイレイン=サンが一人ぼっちになってしまう」

成り行きを見守っていたメイレインは、突然指さされて驚いた。「いや、私は……」ロングゲイトは彼に構わず、続けた。「サンズ・オブ・ケオスの創始者は君だが、メイレイン=サンも維持を頑張ってくれているんだ。労ってやってくれないか?」

ブラスハートは目を閉じ、算段する。二度目の接触はまだ実現していない。念のため、この組織はもう少し維持する必要があるだろう。くだらない諍いで不和を生むのは望ましくない……「よかろう」彼がうなづくと、ロングゲイトは「そうこなくっちゃ」と微笑み、二人でコートへと向かった。メイレインが慌ててその後を追った。

コートでは、アモクウェイブが無意味なスリーポイントシュートを繰り返して暇を潰し、エッジウォーカーとトラップマスターが、どちらのチームがブラスハートを獲得するかを巡ってジャンケンしていた。


◆ ◆ ◆


ペントハウスの中には、オーブンから流れる香ばしい匂いが広がっていた。「向こうは楽しそうですね」エゾテリスムが窓ガラス越しに彼らを眺め、言った。「そうだな」デシケイターは気のない返事。彼は窓を見ようともしない。エゾテリスムと話す時以外、携帯端末による株取引に夢中だ。

「まさかブラスハート=サンまでが混ざるとは。あの用心深い彼がこうして姿を現すだけでも驚きだというのに。明日は雷では済まなそうです」「偽物かもしれんぞ」適当に答えると、デシケイターはチラリと窓を見た。より正確には、ブラスハートを。

気にくわない男だった。IRC-SNS上でのちょっとした遣り取り。サツガイに接触した時のことについて。ブラスハートとはその程度の接触しかないが、それだけでも何かが違うのを感じた。話が噛み合わなかった。カネ、経済、社会……そうした枠組みの外側にいるような気さえした。

たかが一企業の上級社員が。稼ぐカネも遥かに少額の癖に。そうだというのに、奴は……それを微塵にも気に留めていない。自分の地位に、財産に、収益に、カネに、なんの頓着もない。それでいて、サツガイの話をしている時だけは異様に興味を示すのだ。

カネに興味のない人間などいない。ニンジャであろうと、カネからは逃れることができない。逃れられるものなど存在しない。実在してはならない。デシケイターは苛立った。ブラスハート。そこにいるだけでムカつくが、顔を見ると、特にあの目を見ると、さらにムカつく。彼は思わず舌打ちした。

「スポーツはお嫌いですか?」エゾテリスムが尋ねた。「……まあ、率先してやりたいとは思わんね」おや、と彼は驚いてみせた。「理由を聞いても?」「つまらないからだよ。何点稼いでも試合が終わればすぐにゼロだ。意味のない数字を増やして何になる?」デシケイターはやれやれ、とゼスチュアを作った。エゾテリスムは苦笑した。

「まあ、一理ありますね。所詮ゲームはゲーム……何かが生まれるわけでなし」「そうだ、馬鹿げている。無価値だ」デシケイターは少しだけ声を荒げ、グラスにミネラルウォーターを注いだ。「奴は、貴重な人生を無駄づかいしてるんだよ」そして一息に呷った。エゾテリスムは黙ってそれを眺めていた。

「それよりも、もっと有意義な話をしよう。お前と組めば、大きなビズが出来そうな気がする」デシケイターは出し抜けに言った。唐突な誘いだったが、エゾテリスムも悪い気はしなかった。カネは必要だ。目の前の男は典型的な俗物だが、それゆえに俗事に信頼が置けそうに思えた。

エゾテリスムが快諾しかけた時、ジュワァァァ……と液体の焦げる音がキッチンから聞こえ、ショーユのいい香りが鼻腔をくすぐった。甘辛く、香ばしい匂いは食欲を掻き立たせた。

「そろそろ出来上がりか?」デシケイターは興味もなさそうに言った。「そのようです。せっかくの席ですし、ビズの話は後にしましょう」エゾテリスムは席を立った。ジェイドマムシが美味そうなテルヤケの乗った皿を机に並べ始めたからだ。

「ま、よかろう。時間はまだまだあるしな」「あなたとは有意義な関係が築けそうです」「俺もそう思う」二人は顔を見合わせて笑った。程なくして、ジェイドマムシに呼ばれた、バスケットコートのメンバーもペントハウスに戻り、九人全員が食卓を囲んだ。ごくありふれた、ささやかな楽しみが始まった。


第二話

その日は生憎の雨模様だった。どこにでもある雑居ビルの二階にある喫茶店。トウカは頬杖を付きながら、窓越しに外を眺めていた。朝っぱらから空は暗く、重金属酸性雨が視界を濁らせる。ネオン傘の明かりもまばらで、単調で薄暗い景色がどこまでも続いているかのように思えた。今の気分をそのまま映し出しているかのように。フルハシのバカは真逆の感想を抱いているのだろうか?

同級生のフルハシにデートに誘われた時、トウカは嬉しいとも思わなかったし、悲しいとも思わなかった。率直に言うなら、面倒ごとが増えたと思った。こうして貴重な休日に会い、当たり障りのない会話をしていたのも、ただの社交辞令だ。それでもフルハシは無邪気に舞い上がっていたのだが。

トウカは彼のことを人間だと思ったことはない。賑やかなキャラクターではあるが、人間ではない。彼女にとって人間とは、深い付き合いのあるオリガミ部の友人や、家族のような相手を指す言葉だった。故に、フルハシに人間としての付き合いを求められた時、彼女は戸惑い……こうして持て余した。

(あーあ、今日は寝てたかったんだけどな)ストローにため息を吹き込むと、毒々しい緑の液体がボコボコと泡立った。フルハシがトイレに立った今、席には彼女だけだ。退屈しのぎに、手元の紙ナプキンでオリガミを作ろうとしたが、それが一般的でない振る舞いだと思い出し、代わりに辺りを見回した。

呑気に甘味を楽しむ親子連れ。携帯端末を弄るビジネスマン。お揃いのメニューを楽しむパンクスのカップル。カランカランとベルを鳴らし、旅行者風の男が入ってくると、若い店員が小走りで注文を取りに行った。どこにでもある光景。どうでもいい光景。トウカの胸は標準的だった。

何でもいいから、注目させてくれるものはないのか。視線を切り替え、店内の展示物を見渡す。掲示物に目が留まる。新人オリガミ・アーティストの個展のチラシだった。

(個展か……)短髪の若い男の写真が載っている。大学を出たばかりくらいの年齢。それで個展か。深いため息を吐くと、泡立ったメロンソーダがグラスの縁を飛び越えた。トウカは慌ててそれを拭い……店内が妙に静かなことに気づいた。

辺りを見回す。パンクス。ビジネスマン。顔触れは変わらない。親子連れ。子供の姿がない。みんなテーブルに突っ伏している。フルハシはまだ帰ってこない。パンクスの首筋に何かが刺さっている。トウカは注視する。あれは……「綺麗な髪ですね」

「エッ?」トウカは振り向いた。いつの間にか、隣に旅行者風の男が腰掛けていた。そいつはなんの脈絡もなくトウカの髪に指を通し、サラサラとした感触を楽しんでいた。「だ、誰?」「匂いはどうかな?」彼はロングヘアに顔を埋め、すんすんと嗅ぎ始める。トウカは引き攣り、息を呑んだ。

「綺麗な髪ですね。手入れが大変なんでしょう? それにいい匂いもするし……」男はペロリと舌を出し、トウカの髪を舐めた。「アイエッ!」「アハハ、味は分かんないな! 髪の味だ。ンー、タンパク質の味なのかな? あんまり美味いものじゃない……」

「は、離して……」遮るように手をかざそうとするも、手首がガッシリと掴まれ、叶わない。至近距離。男が顔を近づけ、親しげに笑う。妙に落ち着いた眼差し。まるでこれが常識的な行いだとでもいうように。嫌悪感が込み上がる。

「髪の毛ってさあ」男は雑談を楽しむような調子で言った。「人の印象を決めるって言うだろう? 俺はだいたいこういう髪型なんだけど、たまに気分転換で変えるんだよ。でも、その度に友達に戸惑われる。大して切ってないのに、パッと見じゃ気づきませんでした、ってね」

フルハシ。フルハシ=サンはどこに。視線を巡らせ、彼の姿を探す。その様子を見て、男は笑いかける。「探しものかい?」トウカは無視しようとしたが、視線が引き寄せられた。右手の上に載せているもの。背筋が凍った。「ア……アア……」「ああ、やっぱり分かるかな? どうぞ」

ベチャリ。テーブルの上に、それは無造作に放り捨てられた。嫌な音が鳴り、血と、なんだか良くわからない何かが混ざり合った、どろりとした液体が飛び散った。フルハシの首。額の上から後頭部に掛けてが、ごっそりと削られている。見開かれた目と、トウカの目が合った。

「ア、イエエエ……」トウカは失禁した。男は嬉しそうに笑っていた。「ほら、気づく。髪の毛くらいじゃ印象は変わらないってのに、みんな大袈裟なんだもの」「アイエッ!」男はトウカの髪を無造作に掴み、無理やり立ち上がらせられた。彼は瞳を覗き込み、優しい声色で笑いかけた。

「俺、これから友達のところに行くんだけどさ。お土産を忘れちゃって。着いてくれるよね?」トウカは状況を飲み込みあぐねていた。ただ、震えて怯えていた。それを肯定と解釈したのか、それとも何も解釈していないのか、男は頷いた。「決まりだ。じゃ、行こっか」

殺人者は好みのオイランとデートしているような気楽さで、トウカを置いて入り口まで歩いて行く。彼女は店内をおそるおそる見渡す。今はハッキリと見える。なぜ誰も動かないのかの答えも。パンクスの首筋に刺さったスリケンも。ハッキリと分かる。みんな、この男が殺したのだ。音もなく。

「早く来てね」男は笑いかけた。その顔にはいつの間にか、メンポが装着されていた。トウカにはもう、驚く気力もなかった。


◆ ◆ ◆


皿の上では艶やかなソースを纏った皮と、断面から湯気を放つ、ふっくらと焼けたモモ肉が鮮やかなコントラストを生み出していた。エッジウォーカーは箸を伸ばし、一切れ掴むと口元へ運んだ。芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、それだけで幸せな気分になっていく。

口内に放り込み、噛みしめる。パリパリとした皮を突き破り、ふっくらと焼けたもも肉に歯が触れる。わずかな弾力を感じると同時にジューシーな肉汁が弾け、濃厚なテルヤケ・ソースと口内で混じり合った。エッジウォーカーは舌の上の幸福をたっぷりと噛み締めた。

飲み込むや否や、彼は椅子から立ち上がって叫んでいた。「これは美味い!」「ああ、本当に」メイレインがそれに同意した。他のみんなも声こそ上げないが、食べっぷりが感想を物語っている。「オイオイ、そう褒めすぎないでくれよ」ジェイドマムシは心の中でガッツポーズを作りつつ、努めてクールに言った。

「いやいや、これは確かに美味かったよ」ロングゲイトが口元をナプキンで拭いながら言った。「全く、期待以上のものを食わせてくれたな、ジェイドマムシ=サン!」付け合わせのポテトもニンジンも綺麗に平らげられている。皿にはソースの跡すら残されていない。ジェイドマムシの口元が緩んだ。

「料理ってのは店で食べるものだと思ってたけどさ。素人でも美味いものは作れるんだな」皿の隅にニンジンを追いやりつつ、アモクウェイブが言った。ジェイドマムシの眉が動く。だが彼は気づかない。「飯もいいが」デシケイターが出し抜けに言った。「午後からのスケジュールはどうなってる?」

「ああ、それなら俺から説明するよ」ロングゲイトが立ち上がり、タブレット状の携帯端末を取り出した。今日のプログラムには彼も携わっている。「その間に、ジェイドマムシ=サンは……」ファオー。『来客ドスエ』インターフォンが鳴った。

「来客? 今日は他に誰も……」ジェイドマムシが呟くと、小さなざわめきが起こった。「ああ、俺だよ」アモクウェイブが立ち上がり、自然な調子で玄関へと歩いていく。トラップマスターとメイレインが顔を見合わせる。何ら意に介さず、ロングゲイトに問うデシケイター。ジェイドマムシは彼を追った。

……「ドーモ、出前をお持ちしました」「ああ、ご苦労」アモクウェイブが代金を支払い、スシ桶の入ったPVC袋を受け取るのをジェイドマムシは黙って見ていた。スシ屋が去ると、ジェイドマムシはゆっくりとセキュリティロックを掛け直し、言った。「なあ、アモクウェイブ=サン?」

「どうした?」アモクウェイブが立ち止まり、振り返った。真顔のジェイドマムシが彼を見た。「それは、何かな?」「何ってスシだが」スシ桶を突き出す。二段重ねの桶に詰められた、見事なスシが強化PVC袋越しに覗いた。アモクウェイブは微笑んだ。「テルヤケだけじゃ足りないかと思って、さっき注文しておいたんだよ」

「それだけかい?」ジェイドマムシは目線を伏せ、静かに言った。質問の意図を測りかね、アモクウェイブは困惑した。「何が?」「俺はイディオットじゃない。テルヤケ一皿で満腹になるやつなんていないこと、分かってるさ。一番に楽しんで貰いたかったから、初めに出したんだ」「まだあるってことか? それは良かった」「本当に?」

様子を見に来たメイレインが剣呑なアトモスフィアに当てられ、凍りついた。その後ろではロングゲイトが興味深そうに事態を見守る。「そりゃあ……美味かったしさ。料理がまだあるなら、嬉しいよ」「本当にそうかい、アモクウェイブ=サン?」ジェイドマムシの声が怒気を孕んだ。「俺の料理に、何か不満があるんじゃないか?」

ピリピリとした緊張感が漂った。アモクウェイブはここに来てようやく状況を察したか、ジェイドマムシに尋ねた。「なあ、何か怒ってるのか?」「心当たりがあるのかい? 俺を怒らせるような」彼は笑顔で言った。「……スシの代金なら、俺が払ったぞ」アモクウェイブは困ったように笑った。

「貴様は……!」ジェイドマムシはカラテを構えた。アモクウェイブもそれに応じた。一触即発。玄関に不可視のカラテが満ち、視線の間で火花が散り……そこに、ひょいとニンジャが割って入った。ロングゲイト。

「ああ、二人とも。ちょっといいかい?」彼は”まあまあ”と宥めるゼスチュアを作った。何だ、と戦闘者二人は聞き返すが、互いに構えは崩さない。ロングゲイトはそれ以上彼らを遠ざけも近づけもせず、ジェイドマムシに言った。

「ジェイドマムシ=サン。みんな腹ペコでぶっ倒れそうなんだ。俺じゃ加減や盛り付けが分からないから、君が出してやってくれ」「悪いが今、忙しいんだ」「そこを頼むよ。料理のことは君にしか頼めないんだ」ロングゲイトは頭を下げた。ジェイドマムシの殺気が少し薄れた。

「それと、アモクウェイブ=サン。スシを取ったのか」「ああ」「ありがとう、気が利くんだな。……だが、今日はジェイドマムシ=サンが張り切ったおかげで、美味い料理がたっぷりとあるんだよ」「そうみたいだな」アモクウェイブは憮然として答えた。ロングゲイトは苦笑した。

「まあ、せっかく取ったのに捨てるのも勿体ないよな」「そうだとも」「そこで、申し訳ないが、アモクウェイブ=サンに一つ頼みたい。そのスシを譲ってくれないか?」「これをか?」アモクウェイブは首を傾げた。「ああ。実は連れてきたオイラン連中が食べるものが無いみたいでさ」「別にいいだろ? 10日や20日エサを食わさなくっても、連中はくたばらんさ」

「まあ、そこを何とか頼むよ。な?」ロングゲイトは彼を拝むようなゼスチュアを作り、言った。アモクウェイブは訝しんだが、敵対者がカラテを収めていることに気づくと、やがて己のカラテを解いた。

「だからさ、悪いんだけど……」「いいよ、そのくらい」アモクウェイブは微笑み「助かるよ」ロングゲイトが笑い返した。その奥でメイレインが事態の収束を知り、胸を撫でおろした。

「じゃあ、俺はこれを持っていく。あ、それとジェイドマムシ=サン。ついでに例の件も済ませておくよ」ロングゲイトは手を振り、PVC袋片手に玄関を出て行った。やれやれ、思いがけないトラブルに巻き込まれたな、と彼は独りごちた。

所属企業で交渉や折衝を担当する彼は、あの手のサイコとは縁がない。ゆえに少々手間取ったが……(ま、これも経験だな。何かの糧になるさ)ロングゲイトは頷くと、非常階段で下の階へと降りた。最上階のペントハウスに加え、その三つ下までがジェイドマムシの所有物だそうだ。

(上から買い占めていくのも面白いかと思ってさ)いつかの夜、IRC-SNSで聞いた話を思い出す。動機はそれで十分だったそうだ。後は、彼の美学に則り進めた。権利者もオーナー企業も、ジェイドマムシの振る舞いに文句は言わないし、言えない。見合ったカネも出している。壁をぶち抜こうが、部屋を改造しようが、彼の思うがままだ。

パスワード入力。虹彩認証。指紋スキャン。三重の認証を滑らかに終えると、奴隷部屋の鍵が開いた。「失礼するよ」ロングゲイトは儀礼的なノックをし、部屋の中へと入る。オイランたちが一斉に身構えた。

(殺風景な部屋だな)彼はそれを気にも留めず、室内を見渡した。コンクリートめいて一色に塗りつぶされた壁には「監禁」のショドーが掛けられ、この部屋の意義を暗に物語る。窓はない。トイレはあるが、それすらも壁の色と同じにペイントされている。ロングゲイトはオイランを数えた。問題なし。十匹全員揃っている。

「な、何かご用件ドスエ?」おずおずと奴隷が尋ねた。「ああ、スシを持ってきたんだ」ロングゲイトは笑いかけ、PVC袋をどさりと置いた。袋がめくれ、漆塗りのスシ桶が露わになる。オイランたちの視線が集まった。

「好きに食べるといい。ちゃんと一人前づつあるから……と」彼は首を傾げ、オイランたちに指先を向けると「ヒイ・フウ・ミイ……」と数え始めた。短い悲鳴が聞こえた。「いや、九人前……それで大丈夫か。お前は食べなくてもいいだろう?」

「はい」清楚な白いドレスを着せられた、背の低い少女が答えた。オイランたちの視線が彼女に集まった。「特別製だったな?」「その通りです。支障はありません」「なら良し」ロングゲイトはそれだけ聞くと、軽く手を振って部屋を出て行った。足音が去ると、あちこちでため息が漏れた。

「ハァ……」オイランパンクス姿の少女……トウカもため息をついた。、無理やり着替えさせられてから、ここに押し込められ、だいぶん時間が経った。カメラを睨みつける程度の元気は戻ってきたが、ああしてニンジャが目の前に出てくると、恐怖を抑えることで精一杯。今すぐにでも逃げ出したかったが、その方法も思いついていない。

「みんな、スシドスエ」オイランの一人がPVC袋に恐る恐る近づき、呼びかけた。何人かが彼女の元へ集まったが、トウカはその場に残った。あの変態殺人鬼の仲間が用意したものなど食べる気はしなかったし、気になることがあったからだ。彼女はドレスの少女を見やった。少しの逡巡の後、声を掛ける。

「ねえ、あなた」彼女が振り向くと、トウカはハッと息を呑んだ。やはり他のオイランより若い。自分より少し下か、同じくらいに見える。「何かご用ですか?」そして、精緻な彫りの芸術品めいて美しい顔立ち。「スシ、食べないの? 無くなっちゃうよ」自分を棚に上げて尋ねるが、少女は首を横に振った。「食事は不要です」

「どうして?」その問いに彼女は答えず、黙って俯いた。カモヨみたいだな、とトウカはオリガミ部の仲間を連想した。無口な子で、答えに困るとすぐに俯いてしまう。トウカはそれ以上の追求を避け、二人はしばらく黙っていた。

「あなたも食べるドスエ」突然近くでささやかれ、トウカはハッとした。振り向くと喪服姿のオイラン。見ればオイランたちはみな、スシに舌鼓を打っているようだった。逞しいな、とトウカは苦笑いした。「ありがとう。でも私はいいよ」

「無理にでも食べておいた方が元気が出るドスエ」「いいよ、気味が悪いし」「それでもドスエ。何が起こるにせよ、お腹が減っていたら動けないドスエ」オイランは頑として勧めた。こういう職業の人と話すのは初めてだったけど、意外と親切なんだなとトウカは思い……訝しんだ。「待って。この子には勧めないの?」

「それは……」オイランは言葉に詰まった。「そりゃ、さっきの奴がいらないとか何とか言ってたけどさ。尋ねもしないなんて薄情じゃない?」トウカは彼女を咎め、一瞬後にたじろいだ。思っていたよりもキツい調子で言ってしまった。少女は目を伏せたまま、横目でトウカを見た。

「……そいつの肌、触ってみて」喪服オイランの向こう側から声。ポリェラを着た、豊満な胸のオイランが言った。「どうして?」「触ったら分かるから」彼女は言い切った。何が分かるというんだろう。トウカは訝しんだが、好奇心も疼いた。

「ねえ、その。触っていい、かな?」トウカは躊躇いがちに尋ねた。少女は黙って、こくんと頷いた。少し心が痛んだが、それでも最後は好奇心が優った。「ごめんね」右手で触れると、少女の体が小さく震えた。トウカは違和感を覚えた。手触り? 体温? どこかがおかしい。

「そいつはウキヨなの」ポリェラ・オイランの声が聞こえた瞬間、トウカは反射的に手を引っ込めた。遅れて皆がざわめいた。

「ウキヨって、あの……!?」ウキヨ。ニュースでしばしば耳にする、危険な反社会存在。異質な思考回路を持つ、冷酷な殺人マシン。(この子が?)トウカはウキヨを見た。晒し者にされた魔女めいて震える姿を。トウカは手を引っ込めたことを後悔した。


第三話

次にどうするか? 答えを出せぬままに時間が過ぎていく。トウカは恐怖の感情を持て余していた。脳内に描かれた残虐なウキヨのイメージと目の前のカモヨに似た少女の姿は、どうやっても重ね合わさらなかったのだ。離れることも寄ることも出来ず、彼女は気まずい沈黙を続けていた。

「ねえ、いつまでそうしてるの?」ポリェラオイランが言った。「え……」トウカは目の端でウキヨを見た。縮こまった少女を。心の奥で何かが疼いた。「危ないわよ」「でも、まだ子供」「機械に子供なんてないわ。その小さな体には、あんたの首くらい軽々ねじ切れる力が詰まってんのよ」

トウカは息を呑んだ。確かにウキヨはただの機械にすぎない。子供に見えるのは見かけだけ。そのはずだ。少女は何も言わずに俯いている。離れろ、と脳が指示を出す。心がそれを拒絶する。歯がゆさと、もどかしさ。自分の意思を言葉にできない。行動で示せない。

「でも……」トウカは言い、それから続く言葉を探ろうとした。オイランは呆れたように言った。「そこの子が何したか、知ってる?」「この子が?」トウカは目を丸くした。「アタシとその子は同じ屋敷にいた。クソ趣味のクソカネモチのクソ屋敷にね」彼女は吐き捨てた。

「……まあ、金払いは良かったわ。ある日、突然その子が来た。顔から爪先、腹の中まで、丸ごと特注のオイランドロイド」「腹の中?」「アー、カネがあったのよ。で、その子が来てしばらくして、あの男が来たわ。ロングゲイトとかいうニンジャが」


◆ ◆ ◆


オイランは……イザベルと名乗った……イザベルはスラスラと、その場にいる全員に聞かせた。ロングゲイトの所属企業は、件のカネモチの企業に買収を仕掛け、彼以外の全ての役員に合意させた。彼は社長職を解任され、地位と名誉を失った。

それだけならば良かった。カネさえ残っていれば身を守れた。だが、買収話は寝耳に水のことだった。その時、迂闊なカネモチは、イミコ……特注オイランドロイドの製作に全財産を投じてしまっていたのだ。

(馬鹿な買い物をしましたな、オスカル=サン)(私を笑いに来たか)屈辱に震える元カネモチを、イザベルはオチャダシ用の盆を持ったまま冷ややかに見ていた。(結局、私以外の全員が寝返っていたというわけだ。貴様の差し金でな)(彼らは賢い選択をしました)

ロングゲイトは柔和な笑みを浮かべた。彼は決して声を出して笑わなかった。オスカルは唇を噛み締めた。(用が済んだのなら失せろ)(これからが本題なのですよ、オスカル=サン)ニンジャが指を鳴らすと、アタッシュケースを抱えたクローンヤクザが、ズカズカと床を踏みにじって入室した。

(オスカル=サンに例の物を)クローンヤクザは頷き、ケースを開けた。イザベルは目を見開いた。旅券とカネ。再起を図るために十分な品物だった。(……何を言いに来た)オスカルは唸るように呻いた。(見ての通り、あなたが今一番必要としているものを持って来ました)悪漢は静かに笑った。

(何を言いに来た!)机が強烈に叩かれ、冷めたチャが跳ねた。(あなたが今一番大切にしているものを頂こうかと)ロングゲイトは、主人の椅子の後ろで震えるイミコを指で示した。彼女はビクリと震えた。

(断る!)(一時の感情で取り返しの付かないものを失う。つい先日、身を以って知ったばかりでしょうに)(イミコは渡さん!)(先日も聞きましたよ、その台詞は)

(ならば、二度でも三度でも言ってやるとも。イミコは渡さん! 誰にも、誰にもだ!)(あなたが死ねば、誰の手にでも渡ります)(私は死なん!)オスカルの口の端から泡が漏れる。ロングゲイトは苦笑した。イザベルはため息をついた。やはり、この男はもう駄目だ。

(やれやれ、やはり貴方と交渉しても無駄なようですね)(ならば失せろ!)(仰せの通りに。ですがもう一人、話してみたい方がいますので)ロングゲイトが椅子から立ち上がった。イザベルは咄嗟に身構えた。だが、彼は秘書には目もくれず、オスカルの方へと向かった。

ニンジャの狙いを察し、わめき散らしながら立ち上がった老人を、クローンヤクザが机の上に押さえつけた。押さえつけた? いや、叩きつけたと言った方が良いかもしれない。花瓶が床に転がり、水を撒き散らして割れた。

(貴方、自我がありますね?)ロングゲイトはしゃがみ込み、目線を合わせて語りかけた。イミコは後ずさりした。人間めいて自然なリアクションだった。(どうして)(仕事柄、そういうオイランドロイドを見る機会もあります。それより貴方。私と取引しませんか?)

(取引?)(広い世界へと連れて行ってあげましょう。その代わり、この世界を壊しなさい)クローンヤクザに命じ、イミコにドス・ダガーを手渡させる。一瞬拘束が緩むが、オスカルの弛んだ体では屈強なクローンヤクザに抵抗することは叶わない。

冷たい色に輝く刀身を、イミコは静かに見つめた。オスカルが手足をバタつかせ、何かを叫んだ。(親は子を支配する権利を持たない。貴方も同じです)(殺せばいいの?)少女はロングゲイトを見上げ、静かに言った。子が親に尋ねるかのような無垢な口調に、イザベルの背筋が凍った。ニンジャは満足げに笑った。

オスカルは暴れている。抵抗している。だがそれは障害にならぬ。(もう私を養えないなら)彼女は無言で凶器を振り上げ、振り下ろした。刀身が頭蓋を砕き、鈍い手応えがあった。躊躇なく二撃目、三撃目。アイスピックめいて頭蓋に穴が空き、刀身が頭に埋まった。彼女の元主人はビクリと大きく痙攣し、二度と動かなくなった。彼女はただ、震えてそれを見ていた。(オスカル=サン)


◆ ◆ ◆


「ナンデ?」トウカが呆けたように言った。「さっきも言ったでしょ」過去を語り終えたイザベルは疲れた声で返す。「ウキヨは機械。損得でしか物事を勘定しない。だから殺したのよ」「私じゃない」イザベルは声の方向を見た。イミコ。「私じゃない」怯えを残した目がイザベルを睨んだ。

「言い逃れもできるのね? どこで覚えたのか知らないけど」「殺したのは貴方。あのニンジャに次の勤務先を保証するって言われて、それで……」「ああ、そう」イザベルは軽く手を振った。

「だから、その子から離れなさい。ウキヨは人間じゃない。人間の姿をしたバケモノなのよ」彼女はトウカに言った。遠巻きに見守っていたオイランたちも、それに同調し始める。孤立したイミコの糾弾は徐々に力を失っていった。恐怖と侮蔑。二つの感情が入り混じった目が、一斉に彼女を見据えた。

(ナンデ?)トウカは再び、次の行動を決めあぐねていた。冷静に考えろ。彼女は自分に問いかける。イザベルの話が嘘でも本当でも、彼女の側につく数が圧倒的に多い。ならば追従した方が身に危険は及ばないだろう。いつもそうしているように。

大切なオリガミ部の仲間と、彼女は教室で目も合わせない。仕方のないことだ。チアマイコ部がカモヨの本を取り上げても、ジョックが男子部員にちょっかいをかけても、彼女は助け舟を出さない。笑って見ているだけだ。

所属カースト外の人間を助ければ、それは不満の表明と取られる。ましてや外の人間を優先などすればムラハチでは済まない。体育館に呼び出され、制裁を受けるのだ。それは最大の恐怖であった。

(平気だよ、トウカ=サン。トウカ=サンが一番大変だってこと、私は分かってるから)放課後に謝ると、カモヨも他の仲間もそう言ってくれる。”親の命令で仕方なく”通う部活動。本心を出せる場所。私を受け入れてくれる場所。それなのに恩を仇で返してばかり。(今も?)

トウカはムラハチにされて縮こまる彼女を見た。縁もゆかりもない少女。危険なウキヨ。冷酷な殺人マシン。(だから見捨てるの?)当然だ。なぜ躊躇っている? 確かに雰囲気がカモヨに似ている。だがそれだけだ。だからそうすれば良い。あの喫茶店の時のように。フルハシや喫茶店の客を後に、言われるままニンジャに付いて行って……

「ちょ、ちょっと待って」トウカは言った。その声は震えていた。口は乾き、次に言うべき言葉は思いついてすらいない。「何?」不機嫌そうに聞き返すイザベル。ガイジンだ。クイーンビーのチオミより背が高い。「違う」「何が違うの」

「だって貴方、この子の言ったことに答えられてない。証拠だって」「あるわけないでしょ。ここがどこだか分かってるの?」「じゃあ貴方は何も証明できてない。さっきのだって、全部作り話かもしれない! その証拠だって!」腹の底から湧いてきた衝動に従い、勢いに任せてトウカは言い放った。

「アタシが嘘をついたっていうのかい」イザベルの顔が紅潮し、オイランたちが眉をひそめる。「人が親切で言ってやったのにさ!」「アンタの親切なんかより、この子の方が信じられるわ」トウカは少女の手を握った。彼女は驚愕の目が見上げられた。トウカは直感の赴くまま、イミコに優しく言った。「大丈夫。お姉ちゃんは信じてあげるからね」

「馬鹿な子」イザベルは肩を竦め、その場に座り込んだ。彼女はそれきり何も言わなかった。オイランたちはしばらくどよめいていたが、やがてそれにも飽きたか、それぞれ時間を潰し始めた。「信じてくれるの?」イミコが困惑して言った。やっぱり似ている。トウカは力強く頷いた。「うん」「どうして?」

「理屈じゃ説明できないことも世の中にはあるのよ」トウカは格好つけて言った。実際、理屈で説明する自信は無かった。「そう……」イミコは俯いた。「私はトウカ。あなたはイミコでいいのね?」「うん」「私もあなたと同じ。さっきの男じゃないけど、別のニンジャがここに連れてきた」

この際ヤケだ。ウキヨを信じることが馬鹿げているなら、それ以上馬鹿げたことをしても構わないだろう。トウカは声を潜めた。「ここから脱出しようと思ってる。貴方が良ければ、私と一緒に行こう」イミコが驚きに目を見開いた。「シッ。声を出しちゃダメよ」

それからしばらく、二人は秘密めかして話続けた。少し離れたところで、イザベルの目が笑った。


◆ ◆ ◆


「さて、続いては皆さんお待ちかねのプレゼント交換だ!」ジェイドマムシがクラッカーを鳴らすと、エッジウォーカーが囃し立てた。ロングゲイトに連れられ、十人の人種も服装もバラバラなオイランが現れる。「上玉だな」ブラスハートがどうでも良さそうに言った。

「ルールは簡単だ。一人一つ。重なった場合はクジ引きだ。そして……」ロングゲイトが振り返る。オイランは必死に震えを抑えようとした。「我々は九人。プレゼントは十個。これがどういうことか、分かっているな?」「しっかりもてなせよ!」トラップマスターの野次が飛んだ。司会者は形だけ彼を諌めた。

「待ちきれない者もいるようだし、それでは始め」「待て」ブラスハートが出し抜けに遮った。圧倒的なカラテ練度、それが生むオーラめいた存在感。ニンジャもモータルも問わず押し黙る中、彼は静かに言った。「八人だ。私の分は必要ない」

「アイエエエ!」心弱いオイランがついに叫んだ。「お前は失格だ!」メイレインが笑いながら言い、他のオイランが内心で笑みを浮かべた。クソが。トウカは心の中で気丈に吐き捨てた。彼女はその怒りを抱き込み、反抗の埋み火を保とうと努めた。

「……では、ブラスハート=サンの分は例の儀式に回そう。みんな自由に好みのオイランを選んでよし。スタート!」司会者が今度こそ開催の合図をすると、好色なニンジャが先陣を切って思い思いのオイランの元へと向かった。エッジウォーカーが同時に二人のオイランの胸を揉み、二人が嬌声を張り合った。

それを皮切りに、ペントハウスのあちらこちらで扇情的な声が響きあった。(何よこれ)トウカは顔を赤面し、顔を青くした。深夜リアリティTVの数倍、下劣で低俗だった。当然ながら、一般高校生に過ぎない彼女が、ここまでの猥雑を経験したことはない。半ば無心でイミコを庇うように抱き寄せる。イミコは首をかしげた。

幸い、トウカやイミコに真っ先に興奮を寄せるアブノーマル性癖者はこの場にはいないようだった。好奇の目はレアな海外オイランに向いている。トウカはこのチャンスに油断なく状況確認し、UNIXデッキを探した。この際、LAN端子でも良い。

クラスメイトから合法LAN端子を見せてもらったことがある。体がオイランドロイドのイミコにも搭載されていることは確認済みだ。直結が出来ればセキュリティとか、そういう難しい物を操作出来るらしい。それで何か……「お前だな」

トウカは震え上がった。目の前にガイジンのニンジャが現れ、自分に話しかけたのだ。「な、何か」精一杯の引きつった笑みを浮かべ、無理やり媚びた声を作って尋ねる。デシケイターは答える代わりに数秒、彼女の目を覗き込んだ。今朝方の暴虐が嫌でも思い起こされ、彼女はただ恐れた。彼は肩をすくめた。「ハズレだな」「え?」

「気概がないな、気概が。つまらんカスめ」あからさまな失望を込め、彼はハエを払うように手を振った。(無理やり連れてきておいて……!)憤怒のアドレナリンが湧き上がる。トウカは暴発寸前の怒りを無理やり押さえ込み、凄まじい笑顔を作った。ニンジャは鼻で笑った。

「やれやれ、どいつもこいつも……ん?」デシケイターはオイランが抱えた、場違いな少女に目を下ろす。イミコのマイコ回路が自動作し、媚びた目で彼を見上げた。「ダメ!」トウカは途端に彼女を抱きとめ、無謀な怒りを込めてニンジャを睨みつける。「ほう?」デシケイターは目を細めた。

「失礼、それはウキヨでは?」一触即発のアトモスフィアの場に、エゾテリスムが割って入って言った。「ウキヨだと?」「ええ。そういう感じがします」彼はしげしげと見つめた。「流石、お目が高いな! ご覧の通りの珍品だよ、それは」ロングゲイト。

「どこで手に入れました?」エゾテリスムは首筋の生体LAN端子を確かめながら言った。是非彼女が欲しい。直結してみたい。探究心が疼く。欲の衝動を紳士的な振る舞いで押し隠す。ロングゲイトは目を細めた。「取引先でね。なんでも特注品らしい」「特注?」

「詳しいことは知らんが、色々な部分が特別製なんだ。スシを与えずとも、電力で完全に動作する。ついでに人間の内臓をバイオ移植してるらしい」「どういうことです?」「食事や排泄を人間同様に行うため、とか言ってたな。所詮はフェイクのようで、栄養の吸収は不可能らしいがね」

「なるほど、それで……」エゾテリスムは頷き、黙考した。彼なりの理屈で、彼なりの何かを納得したようだった。デシケイターが白けた目で流し見る。ソファーではブラスハートの機嫌を取りに向かったオイランが、諦めてリビングに戻ったところだった。

歓談する二人のニンジャを前に、トウカは一つの選択を迫られていた。ロングゲイト。イミコとイザベルを連れてきたニンジャ。彼に尋ねれば、先程の話が本当か嘘かを確かめられる。彼女は嘘だと思っている。だが、もし本当だったとすれば。

この状況でイミコを、何より自分を信用できなくなってしまえば、ズルズルと流されるがままになってしまう。トウカは自分の性格を自覚していた。それにイミコの気持ちを考えれば……信じると明言した相手が、自分を疑うようなことを第三者に尋ねれば……気分がいいはずがない。

「大丈夫ですか?」イミコが尋ねた。トウカは慌てて取り繕い、大丈夫だよと答えた。そうだ、この子を守れるのは自分だけだ。オスカル=サンとかいう人もそう思っていたのだろう。彼はきっと、娘が欲しかったのだ。

「なんだか盛り上がってるな。そいつ、ウキヨだって?」「マニアックな趣味かと思ったが、そういうことか」トウカの葛藤などつゆ知らず、さらに二人のニンジャが現れた。トラップマスターと……アモクウェイブ! トウカは恐怖に心臓を鷲掴みにされ、硬直する!

「初めて見るな。見た目は人間そのものだ」「ちょっと小さいがな」トウカに抱えられたイミコを二人はベタベタと撫で回す。だがやがて、背中側を見るのにトウカが邪魔になった。「邪魔だ、そこのオイラン」アモクウェイブがイミコを無理やり引き離す。「あ……」トウカはそれだけ言って手を伸ばすのが精一杯だった。

服の下にまで手を突っ込み、体を弄るニンジャたち。トウカは悔し涙を堪え、じっと見守った。「だがまあ、この体じゃなあ。どうにも……」「特技があります」イミコが唐突に言った。エゾテリスムがほう、と目を寄せる。「特技ですか?」

「ウキヨの身体は機械です。ゆえに親和性があります。例えば」トウカは思わず「あ」と口に出した。イミコが向かう先にUNIXデッキを見つけたのだ。イミコは彼女を振り返り、小さくウインクした。トウカは自分を恥じた。

「ンン……」脇からLANケーブルを引き出し、UNIXデッキに接続するイミコ。彼女は管理システムにアクセスしようとし、眉をひそめた。(セキュリティが……弱い?)豪邸に居を構えるニンジャに似合わない、杜撰なセキュリティ。何らかのトラップか? だが、このチャンスを逃すわけには行かない。トウカのためにも! 

彼女はいくつかの設定と時限式の仕掛けをセットし、何食わぬ顔で直結を解いた。4人のニンジャとジェイドマムシが遠目に見つめる中、彼女はゆっくりと瞼を閉じた。天窓とソファ側の窓のカーテンが閉ざされる。「やるじゃないか」アモクウェイブが拍手した。

「ですが、この程度は接続者なら誰でも可能です」エゾテリスムが硬い顔で言った。「もう少し、何かできることはありますか?」「訓練を積めば」「つかぬ事をお聞きしますが、直結時、何か風景が見えるようなことは?」「特にそういうことは」「そうですか……」魔術師は残念そうに言った。ニンジャたちの興味がトウカに移りかけた。……その時!

ファオー! ファオー! 警報アラート! 照明が赤い色に変化し、物々しいアトモスフィアが場を包んだ。「何事だ!」ジェイドマムシが叫んだ。『侵入者ドスエ。ウッドデッキに不審人物な』電子マイコ音声が答えた。

確認しようにもカーテンが閉じている。窓に一番近いブラスハートは微動だにせず、そもそも起きているのかすら分からない。ジェイドマムシは仲間たちにウインクし、率先して窓へと近づいた。だが彼がカーテンに触れた瞬間、照明が消えた!

「敵の仕業か?」トラップマスターが言った。ジェイドマムシはカーテンを開けようとするが、開閉器が誤作動でも起こしたか、簡単には開かない。だがニンジャにそんなものは無意味だ!「くだらん小細工だ!」ジェイドマムシは力任せにカーテンを引き開けた!

……ウッドデッキには誰もいなかった。空は青く、穏やかなアトモスフィアに溢れている。誤報? いや……「さっきのウキヨ。奴だろうな」デシケイターが言った。然り。小さな騒ぎだったが、彼女らは十分な時間を稼げていたのだ。

三重のセキュリティはすでに解除されている。トウカは恐る恐るドアを開け、玄関を出た。いかに堅牢なセキュリティとて内部からの撹乱には弱い。「杜撰な作戦だったけど」「いえ、上手く行きました。トウカ=サンのお陰です」「イミコのお陰だよ」

奴隷部屋でトウカの立てた作戦は「UNIXをどうにかしてロックを解除、ここから逃げる」という、自己評価に嘘偽りない杜撰なものだった。だが成功した。まだ下まで逃げ切れるかはわからないが、第一段階は上手くいった。

廊下を見渡す。エレベーターと非常階段。「エレベーターで逃げられるかな」「乗り込むのは可能ですが、地上まで相当な時間が掛かるかと」「いいじゃない。走って降りるよりは早いよ」「ニンジャたちに途中で止められる可能性も考慮すべきです。そうなれば密室に宙吊りです」確かに。トウカは身震いした。

「じゃあ、走って降りる?」「非現実的です。追いつかれるでしょう」「他の住人が助けてくれたり……はしないよね」「希望的観測は避けた方が良いかと思われます」「じゃあ……」ここでうだうだと悩んでいても仕方がない。早く決めなければ。だが妙案は浮かばない。トウカは思いつくまま、駄目元で言った。「飛び降りるとか」

「それ、可能かもしれません」しかし以外にも、帰ってきたのは肯定的な言葉だった。「え、どうして!?」「先ほど参照できたデータによれば、この階から3階下までがニンジャの所有です。その中に倉庫があり、緊急脱出用のカイトやパラシュートの予備が保管されています」

「……そんなのでここから降りられるの? すごく高いんでしょ?」「……スミマセン、やはり無謀でした。生存の可能性は極めて低いかと思われます。やめましょう」イミコは目を伏せた。

「でも、それしか手段はないんだよね」トウカは不敵に笑った。ささやかな成功体験が過剰な自信を与えていた。それに他に手はないのだ。「確かに現状では最良かと思われます。ですが」「じゃあ行こっか!」トウカはイミコの手を引き、階段を降りていく!

「オイ、ドアが開いてたぞ!」「警備に連絡する! お前はエレベーターを見てきてくれ!」「分かった!」ニンジャたちの慌てる声が遠ざかっていく。トウカはほくそ笑み、足音を最小限に、スピードを最大限に早められるように努めた。

選ばれるのは十人中八人。生き残れるのも八人だけだと? ふざけるな、ニンジャども。生き残るのは十人だ。私たちは逃げる。後の八人も生き残る。それでいい! イミコを連れて、二人で家に帰るんだ! 大きな怒りと小さな希望を胸に、二人は足を早めた。


第四話

足音を鳴らせば気づかれる。気づかれれば捕まり、捕まれば死だ。だが、慎重にし過ぎては追いつかれる。追いつかれれば捕まり、捕まれば死。二者択一の死の真ん中を、綱渡りめいて進んで行く。

ニンジャたちはエレベーターに向かった。だが、おそらくエレベーターは動いていないだろう。それに気づかれれば当然……(そうだ、一階に向かわせておけば良かったんだ!)突如アイデアが浮かび、トウカは自身のウカツを後悔した。だが今更戻れるはずもない。

二人は一つ下の階へ降り、階数表記を見た。「107」。気の遠くなるような数字。その時、上方からニンジャの声。(エレベーターは動いてない! 階段で降りたんだ!)心臓が縮み上がる! ここで廊下に出て、今度こそエレベーターに乗るか!? ニンジャたちが階段に集中してくれれば、エレベーターはフリー……(駄目だ!)やはり宙吊りのリスクは無視できない!

イミコが不安そうに、荒い息をするトウカを見た。そうだ、冷静になれ。私が不安がらせてどうする? 彼女は自分を律しようとする。だが焦燥が湧き上がる! トウカは……指を下に向けた! ヤバレカバレだ! このまま一気に105階の倉庫を目指す!

頭数は圧倒的に相手が上。身体能力も遥かに上。そしてイミコがハッキングを仕掛けたことは、ニンジャたちに知れ渡っている。となれば当然、105階の倉庫にも遅かれ早かれ考えが及ぶはずだ。待ち伏せなどされようものなら、脱出への糸口は永久に閉ざされる!

トウカは大慌てで片方の靴を脱ぎ、祈るように廊下へと投げ入れた。土壇場で思いついた、稚拙なデコイ・トラップだ! 彼女はイミコと共に階段を降りていった。すると、上からドタドタと慌ただしい足音が響く! 駆け下りてくる!

(こっちに来るな……)心臓がバクバクと鳴り、その音が漏れているようなメガロ妄想が始まった。不安と疑念が足を早めようとする。それでも二人は慎重に階段を降りる。(お願いだから、こっちに来るな……!)一歩一歩がもどかしく、苛立ちを生む!

(ここだ! 靴が落ちている! 慌てたせいで脱げたんだ!)(お手柄だ、メイレイン=サン! この階を探すぞ!)踊り場へ降りたところで、上階から声! 偽装に掛かった! だが追っ手は二人。猶予時間は多くない! 踊り場から106階へ降りると、次の踊り場が見え「「ザッケンナコラー!」」

ナムサン! 踊り場には既にクローンヤクザ警備業者が待機!「「ダッテメッコラー!」」一糸乱れぬヤクザスラング輪唱! コワイ! 前門のタイガー、後門のバッファローめいた恐怖光景! いや、それにも勝る! 後門にいるのは、バッファローすらも素手で屠る怪物なのだ!

もはや足音の隠蔽は無意味。ヤバレカバレで駆け降りようとしたトウカの前にイミコが躍り出る!「無茶よ!」トウカは思わず叫ぶ! だが、彼女は弱者ではない! 少なくとも、そのボディは極限圧縮されたモーター科学の結晶なのだ! イミコは階段の縁を蹴り、弾丸めいて跳躍!

「カラテ!」「グワーッ!」恐るべき質量の飛び蹴りがクローンヤクザ兵の顔面に突き刺さる! 頚椎骨折! 仰向けに倒れるクローンヤクザ兵!「ワメッコラー!」もう一人のクローンヤクザ兵が、空中で身動きの取れぬイミコにサスマタを突き出す! アブナイ!

「カラテ!」イミコはサスマタの柄を空中で掴んだ! そして柄を支点に美しい前転を決める! Ωめいた軌跡を描き、槍部分の直撃を回避! だがそれだけではない! 一回転したイミコの踵は、過たずクローンヤクザの頭部を捉えた!「アバーッ!」バイオ血液噴出! タツジン!

一刻を争う状況だった。イミコは敵の排除を確信し、演算能力を今後の行動指針に回した。しかしそれは実戦経験の無さが生んだ明確なミスであった。おお、見よ。致命傷を負ったクローンヤクザを。エンベデッドされたプロ意識が、彼に最期の力を振り絞らせる!

着地寸前のイミコの体にサスマタが触れるのを、彼は見逃しはしなかった。サスマタに備わったスイッチを、震える指で入れる!

「ジャッゴラー!」「ピガーッ!?」ナムサン! それは電磁サスマタ! イミコの体が激しく痙攣する!「ヤメローッ!」トウカは足場を蹴り、特攻! 全体重を乗せてクローンヤクザに体当たりを掛けた!

「アバーッ!」「ンアーッ!」「ピガガーッ!」三者三様の悲鳴! クローンヤクザはトウカに押し倒され、壁に激しく頭を打ち付ける! イミコは重力に従い、地面に叩きつけられる!「う、痛……イミコ!」トウカは肩の痛みに耐え、イミコを抱きかかえようとするが、非常に重く持ち上がらない!

「ゴメン、イミコ!」彼女は持ち上げるのを諦め、イミコの足を引きずり、階段を無理やり下ろす!「ピガーッ!」後頭部が階段にぶつかり、頭の中がシェイクされる! 非情だが止む無し! 踊り場から更に降り、二人は「105階」の漢字表記の前にたどり着いた。安堵のため息を漏らしかけた、その時!

SMAAAAAASH!  快音と共に防火シャッターが降りる! 上と下、両方の階段への道が塞がれた!「何!?」「ピガッ……」トウカが戸惑い、イミコが足元で痙攣する。そして彼女が、とにかく廊下へ逃げ込もうとした瞬間……その道までもが閉ざされようとするのを目撃したのだ!

(逃げ場が!)「イヤーッ!」トウカはとっさに叫び、イミコの足を握りしめたまま飛び込もうとする。だが当然、そんな体勢で速度が出るはずがない!「ンアーッ!」閉ざされた扉に頭を打ち付ける! 激痛! 一瞬視界が真っ白に染まる! トウカは地面をのたうち回る!

……痛みが引いた頃には、上と下、そして正面。左右も当然壁に覆われていた。まさにネズミ袋。クローンヤクザたちとの戦闘で、居場所はとうに割れたはず。あとはニンジャたちが、このシャッターを解除する手段を得れば……一貫の終わりだ。

「ここまで来て……?」ここまで来て、では無い。ここまでが上手く行き過ぎたのだ。血の気の引いた頭が、冷静な判断で彼女を苛んだ。偶然に頼りきった、無謀な計画……

「ウオーッ!」トウカは絶叫し、廊下へのドアのノブを掴み、無理やり開けようとする。「イヤーッ!」「ピガーッ……」右足でドアを蹴り、両手でドアノブを掴んでトウカは絶叫した。ありったけの力を込めて、抵抗した。冷たい金属の質量が無常なる現実を伝えた。

「ハァーッ、ハァーッ……」ドスンと尻餅をつく。真っ赤になった手がジンジンと痺れ、感覚が失われていた。絶望がトウカの心を満たした。他にできることは、もう思いつかなかった。「ゴメン」彼女は自然とそう呟いていた。

「……」イミコは人形めいて目を開けたまま、ピクリとも動かない。電撃のせいか? いや、きっと私のせいなのだろう。あの時の衝撃で。いや、それよりももっと前から……「私が逃げようなんて言わなかったら、もっと」「……」「ゴメン、イミコ……」

イミコはアイカメラを操作し、泣きじゃくるトウカを見上げた。彼女の自我は既に回復していた。しかしそれを伝える言葉が出ない。体も動かない。コントローラが故障したゲーム機めいて、延々と映像だけが動き続ける。

トウカ。彼女は何者なのだろう? イミコは漫然と思考する。唐突に助けてくれて、唐突に庇い立ててくれた少女。PVC袋の紙ナプキンを使い、オリガミを教えてくれた。脱出の計画を立て、追従するしか知らない自分を導いてくれた。何の因果関係もなく。見返りを求めることもなく。理解不能だ。

その時、視界に横殴りのノイズ。屋敷の光景が映し出された。ソーマト・リコールというのだろうか? ウキヨにもそれがあるとは。親切な使用人の顔。乱暴しようとした使用人の顔。イザベル、そしてオスカルの顔。

彼は哀れな男だった。少なくとも、イミコはそう思っていた。外では辣腕を振るい、内では大鉈を振るう。屋敷でも苛烈な振る舞いは変わらず、ほぼ全ての使用人が彼を忌み嫌っていた。「ナメられないため」彼の言葉を借りれば、そういうことなのだろう。

けれど、イミコの前では違った。老人でありながら幼児に戻ったように甘え、趣味を共にするように強要する。それも、あくまでイミコが自主的に応じるように強要するのだ。最期まで慣れなかったが、それでも四六時中、蛇蝎のごとく嫌われる彼を、自分だけは助けてあげたいと思っていた。

(トウカ=サンも、同じように?)不意に思考がスパークし、そんな閃きをもたらした。奴隷室での、イザベルやオイランたちの目……イミコは電子的に微笑した。なるほど、それならば説明できるはずもないか。少しだけ気分が晴れた。

「ピガッ」口から漏れる音。視界が切り替わる。「イミコ?」トウカの声。再動作プロセスの進捗バーは、16%から微動だにしない。ニンジャたちが親切に修理してくれるはずもない。ならば……最期に、したいことをしよう。

無線LANユニットは異常値を返さなかった。ハッキング可能性を考慮し、普段は閉ざされているポートを解放する。接続先はペントハウスのUNIXデッキ。念のために仕込んでおいたバックドアからrootログインし、通信履歴を参照した。

やはり、扉の開閉は警備企業によるものだ。ならば偽のメッセージを送れば、ロックの解除も……「ドーモ」その時、突如ojigiコマンドを受信。反射的にwhoisする。'Esotericism'? その名を認識した直後、全ての文字列が真っ白に輝き、視界を埋め尽くした。

「ピガーッ!」「イミコ!?」「ピガッピガガガッ!」イミコは激しく痙攣し、服の下から煙を噴き上がらせた。小さな破裂音が断続的に響いた。「ピ000ガッ、ト011101ウガ、ガ置い…ガ逃010111ピガッ」BOMB! ひときわ大きな破裂音が鳴ると、イミコは動作を停止した。

ギギィ……直後、閉ざされていた廊下への扉が自動的に開いた。トウカは振り返る。誤作動? いや、そんな偶然が起こるはずがない。イミコが? 「ねえ」トウカは優しく揺さぶった。「貴方なの?」答えはない。「ね、ねえ? イミコ? 寝ちゃったの?」答えはない。

彼女は目を落とした。イミコは目を開けたまま、ピクリとも動かない。そうだ。イミコはもう。でも直せるかも。「置いて逃げて」脳内で途切れ途切れのメッセージが紡がれる。今の自分に何ができる? 何をすれば、イミコの勇気に報いてやれる?

トウカはイミコの瞼を優しく閉じてやり、ゆっくりと立ち上がった。そして廊下へと振り返らずに進んだ。潤んだ視界。頼りない足取り。(しゃんとしろ)彼女は自分を律した。そして廊下に入って少しだけ進んだ場所に、もう一枚の扉……いや、フスマを見つけた。

なぜこんなところに? いや、その程度の疑問でもう足は止めない!(何が待ってようったって!)彼女は怒りを込め、目の前のフスマを開いた。ターン!

「嘘でしょ……行き止まりなの……?」彼女が足を踏み入れたのは、タタミ敷きの四角い小部屋であった。それはシュギ・ジキと呼ばれるパターンで、十二枚のタタミから構成されている。四方は壁であり、それぞれにはタヌキ、ウサギ、ウサギ、フェレットの見事な墨絵が描かれていた。

倉庫はどの扉だ? もはや先へ進むためのタヌキは意味をなさない。二匹のウサギのどちらかがアタリのはずだ。何らかの手がかりを探すべく、トウカは部屋の中心部へと進んでいった。額の汗と、涙を右手の甲で拭った。その時!

ターン! 左の壁が回転! 「何!?」ターン! 振り返った途端、二度目の音! 右の壁が回転!「何!? 何なの!?」左右の壁は勢いよく回転し、やがて、ちょうど元から90度回転した位置で止まった。トウカは分けも分からぬまま後ずさり、左右を忙しなく見渡し……凍りついた。

右の壁の先には、パラシュートとカイト。それも剥き出しで置かれている。だが、左の壁の先には……!「イミコ……」ナムサン! そこには機能停止したイミコの姿があった!

だが、そんな筈はない。彼女は廊下の外に置いてきた。自分より早く、この部屋に入ることなど……「アー、アー、そこのオイラン。聞こえるかな?」混乱するトウカに、尊大な声が語りかけた。天井の隅にスピーカー。

「よくもまあ、大胆不敵な策を思いついたものだ。だが所詮は非ニンジャのクズ。悲しいほどに力が足りていない」尊大な声の後ろから、複数の嘲り声が漏れ聞こえた。「もっとも、その勇気は褒めてあげよう」

「何が言いたいの……!」トウカはスピーカーを睨んだ。下部には小さなカメラ。私を監視しているのか?「ご褒美をあげようと思ってね」「ご褒美?」トウカはオウム返しした。状況が飲み込めない。「左と右。どちらか好きな方を選ぶといい。ついでに一つ教えておくと、そこのウキヨはまだ助かる」「何ですって!?」

「激しい損傷とショック。それで再起動プロセスに入ったそうだよ。完全な機能停止には至っていない。もっとも記憶とか、そういうメモリは初期化されるかもしれないがね」トウカは唾を呑んだ。生きていて良かった。連れてくるべきだった。驚嘆と後悔が心を満たす。

スピーカーからの声は高圧的に続けた。「だが……ふふ、ツー・ラビッツ・ノー・ラビットの教えは知っているかね? 選べるのは一つだけだぞ。どちらかの部屋に入った瞬間、ドンデンガエシは自動で閉じる」「……!」トウカは目を見開いた!

ナムサン! なんたる卑劣非道か! トウカは拳を強く握りしめた。指の隙間から血が流れた。ニンジャたちは彼女らをゲームの駒としか考えていないのだ。彼女は葛藤する。右の部屋に進めば生還の目がある。だがイミコは間違いなく死んでしまう!

しかしイミコに近づいたところで彼女を助ける手立てはない! 右が唯一の選択肢だ! だが! だが! だが! イミコを見捨てたくはない! ニンジャに頼み込めば、彼女だけは生かしてもらえるかもしれない。馬鹿な、そんなはずはない! それだけは、生きているのならば、それだけは……!

「お友達が大事かい? なら左に行けばいいだろう」スピーカー越しに、見透かすような声。「うるさい!」「なぜ行かない? それでは……フフ、まるで、見捨ててしまえと考えているかのようだよ? 勇気溢れる君が」「違う!」「ならば何故、先ほど彼女を見捨てたんだい?」

「だって、死んでたみたいに! それにイミコが……」「上手な言い訳だ! ならば、また右へ向かえばいいじゃないか」「でもイミコが!」「彼女もそう望んでいるさ。ハハハ、君も手前勝手にそう考えているんだろう?」「違う、違う、違う!」「ならば彼女を救いたまえ! 自らの生存の可能性を捨ててな!」

「ARRRRRRRRRRRRRGH!」トウカは声を枯らさんばかりに叫んだ。怒りと悔しさ、そして悲しみが混ざり合い、抑えきれぬ憤激となっていた。とめどなく涙が溢れるが、それでも衝動は抑えきれず、彼女は床を殴りつけた。嘲笑の声がますます強まった。彼女はただ俯き、嗚咽した。

……その時。バチ、と火花が散る音がした。「イミコ……?」トウカは顔を上げてイミコを見た。ピクリ、と指先が動いた。錯覚? 死後硬直? 馬鹿な。彼女の体は機械。それはありえない。ピクリ。もう一度動いた。見間違いではない!

「生きて……生きてるの?」彼女は呆けたように言った。「馬鹿な」スピーカーからも。それに続いて、慌てふためく声が聞こえた。「確認しただろう! 奴は完全に動作を停止したはず……電脳を焼き切ったんだぞ!」「オイランが左を選ぼうと、残骸に触れるだけだ! そうだろう、エゾテリスム=サン!」「確かに確認しました。ですが、これは……あ、ありえない!」「エゾテリスム=サン!」

「あ……ああ……」上半身だけのゾンビーめいて、火花を散らしながら這いずるイミコを、トウカは涙ながらに見ていた。イミコが敷居を越え、中央の空間にたどり着くと、左の回転扉が閉ざされた。「イミコ」トウカは駆け寄り、愛しそうに抱きかかえた。ブッダは起きていた。いや、イミコが耐えたのだ。奇跡が起きたのだ!

「ざまあみろッ! クソニンジャども!」トウカは快哉した! 喉の痛みなどもはや問題ではなかった。怒鳴るように叫ぶ!「お前らは……カハッ、私た、ちを、舐めすぎた! 人間を舐めすぎたんだッ!」

トウカはイミコを支えてやると、二人三脚めいた体勢で右の部屋へと向かった。彼女は去り際、クソ監視カメラへ向けて、感情のままにファックサインを突き立てた!「私たちの勝ちだッ!」そして奥へと進む!


パ ァ ン


「……?」トウカは訝しんだ。体が前に進まない。おかしいな、お腹が妙な感じ。彼女は体を見下ろした。食べかけの七面鳥みたいに肉と骨が露出していて、そこから生々しい色の、教科書でしか見たことないような……

膝の力が抜けた。(ナンデ?)畳が目の前に迫り、ベシャリとぶつかった。なんとか首を動かすと、イミコと目が合った。

「プッ……アッハハハハハハハ!」喧しい笑い声が聞こえた。あのスピーカーだろうか? 見上げようにも首が妙に重く、動かない。おかしいな。助かったはずなのに。朦朧とする意識の中、イミコがニタリと笑った。

「俺のことを覚えているかい?」イミコの顔と口で、誰かが言った。「俺は大して覚えていないんだが……まあいいか。種明かしをすると、君のその……プッ! さっき、君がこう、人間の……ククク、なんだったかな?」(舐めすぎたんだとよ!)「そう! それだよそれ!」

「まあ、それは俺のイタズラなんだよ。悪かったな」悪びれぬ声と共に、イミコの口元が醜く歪んだ。ヤメロ、あの子を穢すな。トウカは手を伸ばそうとする。震えて動かない。

「彼女の電脳はとっくに破壊済みです。つまり目の前のそれは単なる死体」「そして死体なら、俺は爆発させることができる……そういうジツでね」イミコの腹部からは、緑のバイオエキスとオイルが混じり合った、深緑色の液体が溢れ出していた。「サツガイ=サンの力。美しい」誰かが言った。

(ナンデ?)トウカには分からない。ニンジャたちの言っていることが。今、何が起きたのか。天井からもう一人ニンジャが降ってきた。ビデオカメラを持っていて、ニヤニヤ笑いながらトウカにレンズを向ける。笑い声が一段と強まった。

どうしてこんな目に? 全身から力が抜け、意識が遠のいていく。ソーマト・リコール。イミコ、フルハシ、オリガミ部の友人。そして家族。大切なもの。側にあるはずだったもの。それらが離れていく姿を幻視する。

(やだ)何かを求めるように、彼女は手を伸ばした。(やだよ)それが最後に浮かんだ言葉だった。五感が閉ざされ、意識が闇の中へ呑み込まれていった。怒りと憎しみが不浄なるものに呑まれ、いずこかへと消えていった。

ナナセ・トウカは死んだ。


◆ ◆ ◆


天窓から割れた月の光が降り注ぐ。「暴力的な」「奪う」「殺害」……彼の美学を示すショドーが反射した月光に照らされ、奥ゆかしくライトアップされる。ジェイドマムシはゆったりとソファにもたれ、携帯端末を操作。楽しかった一日を反芻する。

「今日は楽しかったな」余ったワインを一口飲み、彼は呟いた。台所ではポリェラを着た奴隷オイランが皿洗いをしている。料理は趣味だが、面倒な後片付けは奴隷任せだ。彼はのんびりと撮影した写真をスライドショーする。

オイラン・ショーは上手く進んだ。ロングゲイトの手際は確かなもので、万事が彼の筋書き通りに運んだ。薄幸のウキヨ、彼女を迫害する悪のオイラン、そして名乗り出る正義の救世主。ちょっと子供じみたシナリオだが、見世物にはちょうど良かった。

クライマックスは少しだけ焦った。コープスナパーム・ジツで爆破するはずのウキヨが動き出したからだ。あれはアモクウェイブの奴のアドリブだそうだが、結果的に面白いシーンが撮れた。「あいつめ」ジェイドマムシは苦笑した。空気を読めないやつだが、面白いところもあるか。

「そして、これだ」彼は血染めのオリガミを指先で弄んだ。あの場に降り立ったトラップマスターが拾ってきたものだ。ウキヨのバイオエキスとオイランの血液が混ざり、独特な色彩を生み出している。それが美しいと思ったのだ。

ジェイドマムシは旅行先のペナントが飾られた壁の前に立ち、最下段にオリガミをピン留めした。思い出を記憶に残し、明日の糧とするために。仲間たちがテルヤケを頬張る笑顔を思い浮かべ、彼はクスリと微笑んだ。


【ア・カインド・オブ・モデスティ・プレジャー】終わり。

それは誇りとなり、乾いた大地に穴を穿ち、泉に創作エネルギーとかが湧く……そんな言い伝えがあります。