見出し画像

自分を疑う習慣

【前回を読む】

自分を信じることは大切なことだ。というか、信じられなければやっていられない。自分を信じられないとき、つまり自信がないときの行動はいつも不安がつきまとう。行動の主体はいつだって自分だ。その自分が信じられないということは、全ての行動が信じられないことと同じだからだ。

しかし自分を簡単に信じすぎると、また問題が生じてくる。支持を得ていると思ったら、いつの間にか見切りをつけられていたり。友達とはしゃいでいると思ったら、相手は本気で嫌がっていたり。そういう失敗は誰もが経験したことがあるだろう。

自分を信じることは大切なことだ。失敗の可能性を恐れて捨ててしまうのは、あまりにももったいない。ではどうするか? 行動の前に自分に尋ねてみるしかない。「本当にそれでいいのか? それが正しいとどうして言えるのか?」と。

もちろん、これで全ての問題を解決できるわけではない。本当にそれが正しいと思い込んでしまっていたり、理屈で間違っていても感情を押し殺すことが出来なかったり。だが、少なくともブレーキを掛けることはできる。そうして生まれた心理的猶予から矛盾に気づけることは案外多い。

そして、そういう問いは習慣づけておいた方がいい。自分が正しいと思い込んでいるとき、余計な口を挟まれたいと思う人は少数だろう。だが、とりあえず尋ねることを習慣とすれば、そういう時にも事務的に問いかけることができる。

正しさと思い込み

人間の正しさというものは、案外アテにならないものだ。例えば小腹が空いて眠れない夜、ポテチの袋を見つけたとする。その時「食べてもいい」と自分を正当化する理屈が湧いてこないだろうか。私は湧く。そして食べる。結果後悔する。だが今はそれはいい。何が言いたいかというと、自分を正当化するのは意外に簡単だということだ。

どんな行いにもメリットとデメリットがある。メリットだけを見れば正しく見えるし、デメリットだけを見れば間違って見える。その両方が含まれるのが現実なのに、認識はいずれか都合のいい方のみを切り取ってしまう。無意識に情報を取捨選択しているのだ。

これを利用して、脳は容易く自分自身を騙くらかし「正しいことをしているぞ」と信じ込ませる。前述の通り、自分を信じることは大きな実益を伴うからだ。しかしそれは、一面のみを見て判断した結果に過ぎない。

得た情報が正確かどうか考える。メディアリテラシーというやつだ。しかし得られた情報が正確なものであっても、それが都合の良い一面を切り取っただけのものならば、判断材料としては不十分だ。情報の「範囲」も同時に考えなければならない。

人間の目玉は二つだけで、それも両方前についている。見渡せる範囲は前方に限られている。これを補うためには他者の視点が必要となる。だが「自分は前を見て、この人は後ろを見ている。二人の意見が一致した。だから完璧だ!」とはならない。

なぜなら、他者の視点と自分の視点は被っていることがあるからだ。例えば自分が北を見ていて、他者が北西を見ているとする。それぞれ見ている範囲は違う。だがその大部分は同じだ。二つ合わせたところで、見えていない所はしっかり残っている。

これは10人だろうが100人だろうが同じだ。一斉に同じ方を向いていたのなら、見えていないところも全員一緒。頭数がどれだけ増えたところで結果は同じなのだ。

それに気づかずに同じ方向の情報ばかりを集めていると、本当はある一面から見た事実に過ぎないことが、あらゆる面から吟味された真実だと思い込んでしまうことがある。

情報を得るために費やした時間や、経費などもその思い込みを補強する。考えを他人に出張してしまっていれば、自身のメンツまで絡んでくる。そうなると自分を見つめ直すことが更に難しくなってしまう。

それを防ぐためにも、自分へ問いかけておくことが必要だ。「本当にそれでいいのか? それが正しいとどうして言えるのか?」と。

疑うことと自己否定

自分を疑うこと。自己の考えを否定すること。これらはイコールではない。仮に自身を見つめ直し、何かが間違いだったことを知ったとしても、それは「己の間違いを知る」という学習であり、一つの成長である

自分の間違いを知ることは精神的なショックを伴う。だがそれによって学びの道を閉ざしてしまっては、違った方向へ進むことも、その先にあることを知ることもできない。私はそれを、大分もったいないことだと思う。

歩みを進める前に一度立ち止まり、その道が本当に正しいのか考えること。歩みを進める最中も時々立ち止まり、この道で本当に正しいのかと考えること。それは優柔不断でも自己不信でもない。考えを深めるための、一つの過程に過ぎないのだ。

(おしまい)

それは誇りとなり、乾いた大地に穴を穿ち、泉に創作エネルギーとかが湧く……そんな言い伝えがあります。