前頭葉の天使
(ついに来ちゃった…)
生まれて初めて見る高さのマンションを見上げ、裕香はぽかんと口を開けていた。駅を出てから何もかもが新鮮で衝撃的だったが、この高さは最たるものだった。
広々としたロビーに入り、キョロキョロと辺りを見回す。暖色の光が映り込む、ピカピカに磨かれた壁や床。高い天井。綺麗な観葉植物。その全てが都会的。オートロックの機械へと歩く間、裕香はずっと縮こまっていた。
ピンポーン…
インターホンを鳴らし、先生が出るのを待つ。待ち時間に脳裏を過ったのは、母親の怒り顔。
(ママ…いい子になれなくてごめんね)
あの時のことを考えると、今でも胸がキュッと苦しくなる。大好きだったピアノを無断で辞めさせられ、代わりに塾を増やされたこと。それで母とケンカしたのだ。母に反抗した罪悪感は、ずっと裕香の中で尾を引いていた。
(でも、もう大丈夫。先生にいい子にしてもらうから…)
「はい、どなた?」
不意に優しげな女性の声が聞こえた。先生の声。裕香は安堵した。
「あ、あの、私です。柳沢…」
「ああ、裕香ちゃん。早かったわね?」
「手術に遅れちゃいけないから…」
「そうね、遅刻しちゃいけないわね。開けるから中に入ってね」
かたん。受話器が置かれる音と同時に、ガラス戸が開く。裕香は奥へ進み、エレベーターが降りてくるのを待つ。背後から人の気配。
(…?)
振り向くが誰もいない。もっと向こうだ。制服姿の少女がガラス戸に手を貼り付かせて、無感情に裕香を見ていたのだ。
(あれ、あの子、確か電車の中でも…)
エレベーターのドアが開き、思考は打ち切られる。中へ入り、背伸びして19階のボタンを押すと、裕香は視線をガラス戸へ戻した。
少女はまだそこにいた。真っ直ぐに裕香を見つめていた。能面のような無表情が突如、張り付いたような笑みへと変わった。身を竦ませた裕香は、少女の唇が歪み、言葉を紡ぐのを見た。
「そう、この子が次の…」
続きを待たず、ドアは閉まった。
【続く】
それは誇りとなり、乾いた大地に穴を穿ち、泉に創作エネルギーとかが湧く……そんな言い伝えがあります。