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喧嘩は裁判じゃなくていい

   「グッドウィルハンティング」という映画を見た。
そこで私は「お互いのありのままを受け入れれば、客観的事実なんていらない」ということに気がついた。

   私の母親はありのままの自分を受け入れてくれなかった。
母親はただただ気分を発散しているだけで、私になにかを教えることはなかった。
   それに気づかなかった私は、母親がどうおかしいかを説明しようと必死だった。
相手は自分の気持ちを発散させているだけなのに、私はひとりで裁判をしていた。相手に言われたことと客観的事実を照らし合わせるだけのパズルをしていた。
相手がおかしいと証明するために完璧なパズルを作ろうとしていた。自分を正当化しようと必死だった。
そのパズルが完璧かどうかなんて関係なく、母親の怒号が飛んでくることに気づかずに。

   私は、物語においていわゆる「雰囲気で喧嘩が仲直りする」シーンが嫌いだった。
私が客観的な正しさに頼る喧嘩しか経験していなかったからだ。
どちらが正しいかとか、根本的な問題が解決していないのに仲直りするなんて作り込みが甘い、おかしい、と思っていた。でもその考えは間違っていた。
人間は完璧じゃなくていいのだ。
   自分の気持ちを吐露し、互いの欠陥を教え合い、謝り認め合うことが健全な関係だとわかった。

   冒頭で述べた「グッドウィルハンティング」という映画では、犯罪者である主人公に、「君は悪くない」とセラピーの相手が何度も言うシーンがある。
法律は彼を悪とするが、人は彼を悪としない。人間関係は裁判ではないからだ。
いろんな懸念なんてどうでも良かった。私はただただその美しい関係に感動していた。
正当化することに囚われている自分に、それが間違っているということを教えてくれた映画だった。

   認めることが正しさではない。話せば分かり合えるだとかいう綺麗事を言うつもりもない。私は私を認めて愛してくれる人の欠陥を受け入れる。客観的正しさで測ることの出来ない愛し方をしたい。

   この文章を書きながら、私は正しいことを言っているかと無意識に考えて続けていた。私はまだ自分を正当化することに囚われている。


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