なんとなく

とりあいず、何かを書こう。そうだ、パソコンに向かって何かを書いてみたい。スマホのフリック入力で小さな画面にポチポチする気分ではなかったんだ。けどね、波に乗っている時は、忘れたくないから、速度を落としたくないから、スピード勝負のフリック入力。今回は特に書きたい対象があるわけでもないから、こうして、タイプミスが多い独自のブラインドタッチで、「スラスラ」ではなく、「つらつら」そして「だらだら」書いている。書きたい対象は、おそらく、noteの下書きに埋もれてる。例えば、服について。自分にとっての、「服」について。服装でもあるか。服、それ自体にはあまり関心がない。結局は、ハズレを引かないための、「装い」として認識している。そんなことを言っておきながら、服を買い続けなければいけない宿命(大げさだけど)にある。だから、服を買わないことを、諦める。

たぶん、何かを書いてみたかったんだけど、本当に書きたいことは、書けないよなと思う。心のうち全てを曝け出してしまったら、醜い奴だと思われるだろうし。あぁ、なんだかほんとに「なんとなく」の文章になってきた。そうそう、本を買うことについて。今週末は、合計で7冊の本を買ってしまいました(雑誌含む)。また、積まれてゆきます。枕元に積み上げられる本が、増えてゆきます。そしていつか、雪崩が発生します。崩れたら、積読されていた状況下で土台を築き上げていた数冊の本を、本棚の奥底に奉納します。そうして、本の新陳代謝がされてゆきます。本を買うことについて。昨日、本屋で目線よりもやや高い位置の棚を見上げていると、「本を買うこと、いや、買わなくても、本屋に来ること、本の表紙を眺めること、これって、今の自分の心が、思考が、状態が、それらによって、目にする、琴線に触れる、思わず手に取ってしまう本たちが、変わってくるよなぁ。。。(すごく分かりにくい表現、、、その時の頭の中を、そっくりそのまま文字にすると、こんな感じ)そして、本を読み進めると、心や思考や状態が、飛躍するような、強固になるような、育まれるような、導かれるような、わぁ、本ってすごい!本屋ってすごい!トイレ行きたい!」となったんだ。だから、本を買いましょう。買わなくとも、本屋に行きましょう。そして、本のタイトルを、眺めましょう。よろしくお願いします。

楽しいことについて。厳密には、楽しみにしていたことが終わった後について。また、次の楽しいことを探して、作って、それに向かって。。。いや、そうなんだけど。でも自分は、あくまでもAという楽しみに向かっていたのであって、Aが終わったからBを目指して下さい、ではないわけよ、はい分かりました、とは、そう簡単には、ならないわけです。とするなら、楽しみにしていたことが終わった後を、悲しんで、懐かしんで、約2週間は呟いて、昇華させ、自らの地肉にしていくほかないんだろうな。そうだ、仙台短編文学集の中に、拾った誰のかも分からない骨を、お守りのようにずっと持っていらっしゃる主人公(最終的には海に投げ入れる)がでてきたっけ、そうだ、かわっぺりムコリッタのとあるシーンに、最愛の人の骨を、ポリッ、ポリッ、噛み砕いて、本当に自分の体内に送り込んでいる場面があったっけ。読んでいて、観ていて、苦しい気持ちにもなった、でも、美しかった。思い出せてよかった。平坦な道のりではないけれど、平凡な道のりが、明日からも続いていくのだと思う。会いたい人がいる、訪れたい場所がある、お祝いしたい日付がある、そんなところです。そんな、ところ。なんとなく。

追記。
書きたいけど、誰にも見せたくないこと、かきたいけど、読まれたくなはいこと。それは主に、自分自身のコンプレックス。

イライラした時とか、落ちそうな時とか、そんな時に、よく、メモ張に嫌なことを書いて楽になりましょう、みたいな方法論。以前は自分もやっていたけれど、イライラしないために、落ちていかないために、ずっと気分が晴れやかであるために、生きているわけではないからな、と、少しばかり懐疑的になっている。別に、イライラを抱えていたっていいじゃない、落ちていかないこと、それが1番で生活してはいないから、そんな、少し不快なまとまらない自分のまま日々を過ごしていたって、いいや、自分はそれと共にありたい、みたいな、こうやって自分のコンプレックスを正当化している。

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