「好き」をだれかと共有するのが苦手かもしれない
最近、映画『メタモルフォーゼの縁側』を観まして。
(原作は未読なのであくまで映画を前提としておはなしさせてください)
「BL」という共通項から、高校生の女の子が年配の女性と仲良くなるお話・・・。いやちがうな、そんな単純なお話でもないのだけれど。でもどうしたものかな、うまく説明ができない。
とにかくひとつ、ぐさっと自分の胸にささった瞬間がありまして。
その話がしたいんだ、今日は。
その瞬間というのがですね。
主人公である高校生の女の子の、クラスメイトのキラキラ女子(あえてそう呼ばせてください)が、BLにはまって仲の良い女子たちとキャッキャしてるのを見て、主人公が「ずるい」ってひとりごとを呟くんですね。
これがねえ。
刺さった。
ああ、私も、この子と同じ思考を持ってる、と。
そもそも「ずるい」って、何が、ずるいのか。
自分がひたかくしにしてきた秘密の趣味をあなたはそんなに恥ずかしげもなく語ることができるんだ、という「ずるい」
私もそんな風に好きなものを話せるクラスメイトがほしかった、という「ずるい」
そんなちょっと齧ったくらいで私の大切なものを語るなよ、という「ずるい」
あなたはなんでも持っているのにこんなところまで入ってこないでよ、という「ずるい」
これ以外にもたくさんの「ずるい」が、この台詞にはあったと思う。
これがまあ、本当にぐさっと、なりまして。
私もこの感覚すごくあるんです。
そしてこの「ずるい」という台詞から私が考えたのが、
私は、
「好き」をだれかと共有するのが苦手なのかもしれない。
ということ。
「好き」をだれかと共有するのが苦手だからといって、
ひとりで楽しんで満足なのかというと、そうでもなくて。
やっぱり、「好き」を媒介にして仲良くしてる人たちを見るとうらやましくもなったりする。
例えば。
私はサウナが好きなんですね。
多分世間一般にサウナブームが来るほんの少し前から好きだったと思います。私はそれをひとりで楽しむ趣味として持っていました。尋ねられてはじめて「まあ、好きですよ」という程度で。
そうすると最近になって、急にサウナサウナいう友人が何人か見受けられるようになったんです。
なーんかね、イライラしちゃうんですよ。それを見てると。
そして、ああ自分って性格悪いなあって思うんです。
そんな自分と、
好きなものをたとえハマりたてだろうが「好き!」って無邪気に言える人たちを、
心の中で見比べて、更に、最低だな自分、って思うんです。
そもそもこの「イライラ」の原因がよく自分でも分からないんですよ。
すっごい無理矢理、理由を考えてみると。
サウナブームが来る前までは、「サウナに入る」と言うと、ちょっと変わってるね、とまでは行かなくてもそれに似た雰囲気があったような気がします。
それがブームになると、手のひら返しというか裏切られたというか、そういう感覚を覚えるのでしょうか。
これはひとつ筋の通った理由付けかもしれない。
でもこれが私のなかの本筋ではない気がする。
マイナーなものが好きな自分に酔っていた、なのにメジャーにさせられたものだから、秘密の楽しみを奪われたような感覚?
自分だけが知ってた隠れ家的名店をテレビで紹介されてしまった、みたいな?
これもひとつあるけど、まだしっくり来ない。
うーん。そうだな。もう少し自分の脳みそを深掘ってみようか。
ああ、そうだ。
自分が独自の方法で楽しんでいた「好き」を、「ああ。これがいいんでしょ」と一定の型に納められてしまう感覚が嫌なのかもしれない。
サウナの例でいうなら、世間では、サウナの後に水風呂に入りそのあとの外気浴で「ととのう」のが流儀(?)とされているけれど、私はそうじゃない。
私が一番サウナで気持ちがいいなと思うのは、
サウナに入ってしばらくしてだらだらと汗が吹き出しはじめる瞬間、
水風呂に肩まで浸かり肩の筋肉がきゅっと締まって肩のこりがほぐれる瞬間、
汗をたっぷりかいたあとその倍ほどの水をごくごくと喉に流し込む瞬間。
「ととのう」も気持ちいいけど、完全にととのうところまで行くと気を失いそうで怖いのでそこまではあまり入らない。
こういう細かいこだわりというか自己満足というかを、ひとつの型で判断されるのがとても苦手なのかもしれない。
今は無理矢理頭をひねりだして言葉に起こしたけど、普段なら「ととのう?うーんちょっと違うんだけど」と濁してそこで思考停止しているし、
「サウナ好き」という括りにひとまとめにされたところで、「それは違うよ!」とダンガンロンパするほどの熱量も持ってない。
これが苦手でだれかと共有するのを無意識に避けてしまうのかもしれない。
なのでこういった細かいこだわりがなく、
「サウナいいよねー!ととのうよねー!」と流行りに正直に乗って、楽しそうに振る舞えるその素直さに、私は「ずるい」と思うのかもしれない。そしてイライラしてるのかもしれない。
もうひとつ例を挙げて考えてみよう。
最近、宝塚歌劇でインド映画で大ヒットした「RRR」が舞台化されたんですね。私ももちろん観に行きました。映画を観て行きましたが、とてもよく原作映画を宝塚らしく舞台化しているなあと感心しました。
自分が観劇した作品はとりあえず作品名で検索かけるのですが、この作品は絶賛の嵐。
そして「宝塚観たことなかったけど映画の方が好きで初めて観ました!宝塚ハマりそう!」みたいなコメントも多くみられました。
それに対して、宝塚ファンの人たちは「じゃあこれもおすすめです!」「これも!」「あれも!」と、自分の好きな世界に引き込もうとしているわけです。
きっと自分が好きなものの魅力を知ってくれた人に対しては、正常なムーブなのだと思うのです。
しかしながら、ですよ。
私みたいな偏屈な人間は、こういうムーブに、
うーーーん。と思ってしまうんです。
さあ、このうーーーん。がなんなのか、言語化してみよう。
良い機会だ、がんばろう。
まず前提として、この正常ムーブを起こせる人を、私は素直に「羨ましい」と思います。自分もなれるならそっちに行きたい。まさに「ずるい」。
でもできない。それはなぜか。
これこそ、お気に入りの隠れ家名店がテレビで取り上げられちゃった!ショックに近いものがある気がする。
宝塚ってそこまでマイナーな趣味でもないですけど、でもやっぱりメジャーではないんですよね。マイナーだからこそいいみたいな楽しみ方もあるわけで。
これはなんだろうな。
玄人ぶりたいのかな。古参ぶりたいのかな。
決して新しくファンになる人を否定する気持ちはないし、むしろ新しいファンが増えないと宝塚歌劇はこの先続いていかなくて、私自身も困ることになるのはよく分かっている。
なんだけど私は、
自分のお気に入りの店を新しく好きになった人よりも、
実は私も昔からあそこ通ってたんですよ、という人と
仲良くなりたいと思いがち。
新しく好きになった人とできる入り口的な話より、
少し深い話がしたい、というのもあるかもしれない。
ああ、あとはそうだ。
中学だったか高校だったかのときに、
それこそ宝塚に新しくはまったクラスメイトがいて、
しばらく私も正常ムーブを発動しておすすめしていたのだけれど、
結局その子は、自分のようなずっと観続けるようなファンにはならなかったという経験を思い出しました。その子とはそれっきりで友達関係も続かなかった。
それが特別ショックだったとかそういうわけではないのだけれど、「ああ、まあそうだよね」と変に納得してしまったところがある、というか。
別に裏切られたとも思わない。
ただ、自分が勧めてもどうせ、みたいなところが心の底にあるのかもしれない。
この経験から考えるに、
私は自分の「好き」と同じレベルの「好き」を相手にも求めてしまうのかもしれない。
うーん・・・。
これは重いな。
その自分の重さが分かってるからこそ、せめて迷惑かけないようにと一歩引いてるのかもしれない。無意識のうちに。
あと、そんな風に自分と同じレベルを求めるくせに、自分自身も知識量の偏りが半端ない。
宝塚の例でこのまま書くなら、私は現役の劇団員の顔と名前が驚くほど一致していない。ただ私にあるのは「古くから観ている、観続けている」という事実だけ。
そりゃあ「好き」と胸をはって言えるわけもなく、という感じです。
他の好きなものに関しても、知識の偏りは酷い自覚がある。
それ知ってるのにこれ知らないの?みたいなのが多い。
なので、ふと自分の知ってる知識のなかで、深めのネタをぽろっと口にしてしまって、
「あれ、それ分かる人?」という調子でその深度の話を続けられると、
「あ、いや、それは、わからなくて」としどろもどろになってしまう。
そういう状況を避けたくて、「好き」を出せないということもある。
こうやって書くとやっぱり私は、自分自身にも完璧を求めてしまうし、
相手にも、自分を丸まま投影したような、コピーロボットのような相手を求めてしまう。
「違い」を受け止める度量がないのかもしれない。
これ、治そうと思ったらどうしたらいいんだろう。
暴露療法的に徐々にならしていくしかないんだろうか。
そもそも治したほうがいいんだろうか。
治して人生が楽しくなるなら治したいけど、今の偏屈な自分も実は結構好きだったりするから問題はややこしい。
ふーーーーー。ひとまず、深呼吸。
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