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23歳の春のカレーから28歳の魯肉飯まで ケニー

この長く、暗いノートは23歳の春のカレーから始まり、28歳の秋の魯肉飯で終わる。

23歳の3月

6歳から始まった17年間の学生生活が終わり、社会に投げ出される予定だった僕は、ファミコンより大流行した疫病の影響により、社会に出るのに失敗した。
入社予定だった会社から、老人ホームで働きなさいと言われた頃。
4つ上の放浪癖のある兄から、三軒茶屋のヴィレヴァンの裏にあるシェアハウスで、朝ごはんを作るイベントをやるから、チャパティとカレーを作って欲しいと言われた。
23歳。神聖かまってちゃんと、岡村靖幸を繰り返し聞いてた僕は、三軒茶屋とかヴィレヴァンとか、サブカル臭のするものが大好きだった。
そして、明るい人間が嫌いだった。
明るくって、足が早くって、顔が良くって、女の子からモテる人間が嫌いだった。
彼らの想像力の無さが。
彼らは、足が遅く、顔がイけてない人間、仕事の出来ない人間はこの世界からいなくなっても良いと思っていて。そして、自分は彼らがいなくなっても良いと思っている人間に当てはまる人間だった。
三軒茶屋のヴィレッジヴァンガードに到着し、兄と合流すると、異様な建物の前に案内された。
大量の室外機と、3台のモバイルハウス。外に置かれたテーブルと、モバイルハウスの上でお茶を飲む人間がその建物を囲んでいた。
「明るい人間のいる所だ。」
「変人を受け入れる人間がいる所だ。」
2つの思考が、脳内に浮かんだ。
右足は帰る方向に向かいながら、左足が玄関に向かっていた。
僕が左利きじゃなかったら、モテアマスという、亜空間に入り込む事はなく、僕の人生は大きく変わっていたかもしれない。
利き足のグリップ力の方が強かったおかげで、僕は大量の履き物が散乱している玄関に足を踏み入れた。
状況が理解できないまま、僕は生地を捏ね、玉ねぎを刻み、チャパティとカレーを完成させた。
その場には年上の人間しかおらず、末っ子気質の僕はだんだんとガラクタのようなアートのような空間を心地よく感じ始めていた。
そこには、本名が山田なのに中野と呼ばれている男や、キルビルと呼ばれている女性に出会った。訳が分からなかった。

1ヶ月後の2020年4月

僕は都内の老人ホームで働く事になった。そして都内のモテアマスの住民の15日住民になった。
想定していなかった職場。
疫病により減少するコミュニケーション。
理想と現実のギャップにストレスは限界に達していた。
そして僕は職場に向かう途中、乗り換えの駅で脱糞した。
かっこをつけずに言うと、うんこを漏らした。
情けなさすぎて、お腹を痛めて産んでくれた母親に謝りたくなった。
その日は仕事に行けず、モテアマスにとんぼ返り。泣きそうになりながら、シャワーから出ると、リビングにいる住民に脱糞をした事を告白した。爆笑され、話を聞いてくれた。
あっという間に、僕はこのシェアハウスの虜になっていた。
彼ら、彼女らは、冷笑し馬鹿にして見下す人たちではなかった。うんこを漏らす過程を含めて、面白がってくれた。ここに居ていいんだ。存在を肯定された気持ちになった。
先ほど心の中で、謝罪をした母親に今度は感謝をした。

その事件の数週間後、大量にあるコストコのパンを消費するために、深夜3時にハンバーガーを作る事になった。
代表取り乱し役のカズキタさんと、何を生業としているか分からない、コバさんという男と西友に向かった。
挽肉や野菜などを買っている最中に、コバさんは600gのステーキを買っていた。
モテアマスに戻り、僕が挽肉をこね、ハンバーグを作っている横で、先にコバさんのステーキが完成した。彼が自分で買って、自分で調理したステーキは当たり前かのように、リビングの机に置かれ、そこにいた3〜4人が当たり前かのように食べていた。お金を払っていない僕は、食べなかった。僕は自分がハンバーグを作っている間に、みんなでコバさんにお金を渡したのかと思っていた。
自分のハンバーガーが完成し、キッチンのテーブルに置くと当たり前のようにリビングに運ばれ、皆で僕のハンバーガーを頬張っていた。
呆然と口に運ばれていく肉塊を眺めていると、「ケニーも食べなよ。」と言われステーキを勧められた。結局僕は深夜4時にステーキとハンバーガーを食らった。
ステーキ代を払う事もなかったし、ハンバーグ代が払われる事もなかった。モテアマスの異常な点は、ルールがないというところだ。
「俺のモノは、お前のモノ。お前のモノは俺のモノ。」という優しいのかどうか分からないジャイアンみたいな、ルールではない、曖昧な空気が流れてる。しかも、この空気でさえ流れているだけで、誰かがこういう空気にしましょう、と定めた訳でもない。

僕はフィジーという、世界一幸福の国に選ばれた事がある国に1年間住んでいた事がある。

このフィジーという国もモテアマスのように所有の概念が緩かった。そしてフィジー人の幸福の理由を研究していた僕に対して、彼ら彼女が放った言葉は、僕の身体の中核を、鋭い槍のようなもので貫いた。「俺たちは、モノ・コト(thing)
をシェアするから幸せなのではない。誰かにthingを与えられるから幸せなのだ。」
実は幸せの秘密は人に「モノ・コト(thing)」を与えるという事に隠れていた。そしてフィジー人はこうも言った。
「ただずっと与えてばかりでは、こちらの気持ちも良くない。またこちらも余裕がなく、物質を与えられない事もある。その時は庭の掃除や、畑作業を手伝うんだ。」
モテアマスの住民は無自覚で、フィジー人と同じ事をやっていた。日本人には難しそうな「幸せの秘密」を。
このフィジーナイズされた空気がどこから流れているのか気になり、一度僕は源流を探したことがある。嗅覚を頼りに、三軒茶屋を彷徨っていると、1人の髭面の男に辿り着いた。彼はたくさんの異名を持っている。「代表取り乱し役」「大将」「尊師」「カズキタ」
彼が日本の堅苦しい、金とモノ(things)の交換や、個人の所有というルールを吸い、フィジーナイズした無秩序で温かい空気に変換させて吐き出していた。
モテアマスの住民は彼の吐き出した空気を吸う事で、無自覚に幸せの秘密を実行していたのである。
僕もこの空気の恩恵を授かって、その時分には厳禁とされていた密な関係を住民と築く事ができた。人の作ったご飯を喰らい、自分のご飯は喰われる。たまに、頭のそろばんを弾いて、損得を考えてしまうが、経済的な損得では得られない、満たされた感覚で、そろばんの玉はふき飛んでいった。
ただこの幸せの秘密には落とし穴がある。それは、皆が同じ空気を察知して生きていく事だ。
モテアマスの住民もなんとなく空気を吸って、感覚に慣れていく事で、僕のように頭のそろばんの玉をふき飛ばす事に成功する人々が多い。だが皆が同じようにふき飛ばせる訳ではない。人間だれしも吝嗇な部分を持っている。どうしても、損を減らして、得をしたいと思ってしまうものである。このような特徴を強く持っている人が「Taker」などと揶揄されてしまう。そのような人々が、ルールがないから、人のモノを食べても怒られないから、という観点でモテアマスに住み着き疎まれてしまう様子を何度か観たことがある。中には、カズキタさんが吐き出した空気を、再浄化させジャパナイズしようとする者もいる。多くの変人を受け入れるモテアマスだが、実は絶妙な空気の配合により仕上がっているので、少し空気の配合を変えてしまう人がいると、あっという間に雰囲気がサラサラと崩れてしまうのである。
しかし、中には人のモノをめちゃくちゃ食べるが人気者もいる。そういう人は、率先して皿を洗ったり、話が面白かったりする。また「taker」と疎まれていた人が何かをキッカケに「与える」悦びに気付き、フィジーナイズされるところも何度か見た。このような人間の進化(又は退化)を間近で観察できるのもモテアマスに住む醍醐味の一つだと思う。

モテアマスの生活で、多様な生き方、仕事の仕方に触れた。モバイルハウスを作る仕事、カフェを運営する仕事、スナックのママ、SE、などなど。
それまでの僕は、他人の役に立たないと、自分は生きててはいけないと思っていた。他人に貢献していない自分なんて、世界に存在しててはいけないと。
そのような気持ちから、福祉の仕事や、途上国の支援の仕事などに就こうと考えていた。
しかし、その時期の自分は大して誰の役にも立っておらず、自分の存在価値の無さに絶望していた。
老人ホームでの仕事は、不本意な仕事だったが、少しは人の役にたっていると思っていた。しかしもともと就きたかった仕事とのギャップや、コロナの影響で施設の外に出られなくなった老人たちのストレスを受け取り、僕の精神は擦り減っていった。
自分にも夢があった気がしていた。世界中の人々に食べ物を与えて、おいしいと言ってもらう。というザックリしたアンパンマンのような夢が。
ある日、スナックのママをしているマキタ姉さんに、自分の心情を吐露した事がある。
マキタ姉さんは、かっこいい。夕方くらいにボサボサの髪でリビングに降りて来て、ボケーとしてるかと思うと、洗面所に向かい、数十分後にはハッとするほどの美人に仕上がって、お店に向かう。
僕が自分の心情を吐露した時は、仕事帰りのマキタ姉さんが「ケニーはいま仕事何やってんの?」と当たり障りのない質問をして来た事から始まった。自分の仕事を話そうとしていたら何故か自分の苦しみを洗いざらい話してしまっていた。
誰かとの会話で、自分の心情に気づく事がある。
その時の僕は、自分の不甲斐なさに絶望し、人生を諦めていた。夢とか、楽しみとかそんなものは、僕の人生からもう失われたと思っていた。
しかし、ギターやモバイルハウスを手作りしているヒデくんや、夕方に変身して出かけていくマキタ姉さんとの会話の中で、もう一度、自分の為に自分の人生を使ってみようと思えた。

その翌週

僕は仕事を辞める事を施設長に伝えた。
そして、自分の好きな料理の仕事で海外に行くという目標をたてた。
その為に調理師学校に行くという目標を決めて、夜勤明けで日勤のバイトに行くという、睡眠を無視した生活を始めた。
眠いし、身体はしんどかったが、目標に向かう毎日は心が軽かった。
バイトで毎月50万を稼ぐという、信じられない働き方を続けたおかげで、調理師学校への学費を貯める事に成功し、翌4月から24歳で、調理師学校に入学した。
学校で学んだ料理を、住民に振る舞い、喜んでもらう。自分にはそれが幸せだった。与える事での幸せを実感できる側になった。料理は物質と行為のどちらも与えるられる。それを喜んで貰える事は、フィジーの法則では、幸せを感じられると、思っていた。
しかしそこには、第二の幸せの秘密の落とし穴が隠されていた。

10月の自分の25歳の誕生日の日

天邪鬼な僕は、皆に自分の誕生日を祝って欲しいとは、言えなかった。だが何か特別な事をしたい、という気持ちになり、とんかつと赤飯を作り、酒を用意し、「自分の誕生日なのでご馳走を作りました皆さん食べに来てください。」とグループLINEに送った。自分が作った料理を食べて貰うのは「幸せな事」の筈だった。
その時には、自分は料理を作り皆に振る舞うという事が当たり前になっていた。その日も次々に料理は空になり、買って来た酒もどんどん空いていった。夜も遅くなり皆、寝床に消えていった。空になった皿を残して。食べ終わった皿を洗いながら自分は虚しい気持ちに襲われた。「自分で買い物に行き、自分でお金を出して、自分で料理をし、皿を洗い片付けをして、誕生日も祝われずに、一体自分は何をしているんだ?」
この感情こそが「幸せの秘密の落とし穴」だった。フィジー人たちも「与えるばかりでは気持ち良くない。」と言っていた。
そう、自分は与えてばかりいるのに、全然与えられてなくなった事に嘆いていた。「勝手に自分で料理して自分で悲しくなって馬鹿みたい。」こう言われてしまったら、理解は出来るが、そんなに冷たい場所なのかここは?という寂しい気持ちになってしまう。
「与える事」での幸福感の裏側には、「人の役に立っている時分は存在価値がある。」という思い込みによるものだと思う。それが「いつも与えてくれる人」になっていくと、「与える事」が義務または当たり前になってしまい、「与える」事で「存在価値」を感じる事よりも「与えない事」で「存在価値が下がる」という負の循環が生まれてしまう。そうならない為には他人から「与えられる」事に感謝をして、他人を幸せにする事が重要になる。その時の僕は人に「与えて」自分ばっかり幸せになろうとして、他人の「与える」チャンスを奪ってしまっていたのである。
この事から僕は、自分なりに楽しく生活をする法則を編みだした。それは①「6:4で与えて与えられる事」と②「与えられた事に感謝をして相手の存在を祝福する事」だ。
①に関しては、誕生日の僕に起きた事件のように、与える事で虚しくなるという悲劇を無くす為の法則だ。「与える事」で幸せになりたがる、「幸福乞食」にならない為には、「taker」になってみる必要がある。だが「taker」になりすぎるとモノは枯渇し「物質乞食」になってしまう。「与える事」で幸せになりたいけど、「必死感」と「押し付け感」また「こんなにやってあげてるのに、、」という当時の僕のような「lonely giver」にならないように「6:4の法則」を意識して生きたい。
②「与えられた事に感謝をして相手の存在を祝福する事」がなぜ楽しく生活する為に必要かというと。その時分の僕は「pro giver」であったが「pro taker」ではなかった。この世界には「なんかこいつにモノあげたいぞ。」と思う人がいる。おばあちゃんが孫に帰り際にいろいろとお土産を与える美しい行為があると思う。そのおばあちゃんの気持ちにこちらがなってしまう時がある。その気持ちにさせる愛しい存在が、僕の目指す「pro taker」である。この「pro taker」にモノをあげると、こちらが幸せになる。「pro taker」になる為には、①「孫になる」「②孫くらい可愛いと思わせる」必要がある。①は後天的には難しいと思う。②は顔が可愛い人は得をしている。顔が可愛くない僕みたいなブ男が「孫くらい可愛いと思わせる」為に、「与えられた事に感謝をして相手の存在を祝福する事」行為が必要になってくる。まず笑顔で「ありがとう」「美味しかった」と言う癖をつける。これは最初結構恥ずかしいが、慣れてくれば脊髄反射でできるようになってくる。そして後日再び与えられたモノに関して感謝の意を伝える。そうされると「与えた側」は「存在を祝福された」気持ちになる事ができる。
この「好循環」を当時の僕は意識して生活をする事が出来なかった。

誕生日事件で虚しい気持ちになってしまった僕は、3月の卒業までに就職をしなければいけなかった。虚しい事件があったのだけれども、モテアマスに入居し自分の夢と目標を思い出す事ができた僕は、ドバイの日本料理屋に就職する事が決まった。
海外で料理をするという選択もモテアマスに住んでいなかったら、選ぶ事が出来なかっただろう。

2022年3月

ドバイに行く前に兄貴から24時間料理をやらないか?と言われた。
24時間料理とは、そのままの意味で24時間料理を作り続けるイベントだ。
日本で悔いを残さない為にも、僕はその狂った企画を引き受けた。
当日は昼の12:00から料理が始まった。夜行性の住民たちは昼の12:00にリビングにおらず、3人しかいないので、とりあえず紅茶を淹れる為に火を沸かす事から始まった。この24時間料理のルールはガス台または、まな板で何かしら、作業が行われている事。始まっていきなり、お湯を沸かすという、ルールの穴をついた所から始まった。
最初こそ、ゆっくり始まったこの企画だがみるみるうちに人が増えていった。作った料理は、魯肉飯、餃子、回鍋肉、鯵南蛮、アジフライ、かき揚げ、ハンバーガー、麻婆豆腐、カレー、チャパティ、その他つまみ等、、
永遠に料理を作り続けていた。久しぶりに会う人、前日に飲み屋で知り合った人、調理師学校の同期のフランス人と中国人。肌感覚で60人くらい来たような気がする。
会の途中、さつきちゃんがケーキを焼いて持って来てくれた。全力で喜び食べた。みゆまるが火打石で清めてくれた、全力で浴びた。僕が大ファンのウルド兄からビデオメッセージが届いた。喜び震えた。
その日は、与え続け与えられ続けた。6:4くらいの割合で。
自分の料理で感情を動かし、誰かの親切に感情を動かされた。
偉大なる尊師カズキタはこう言った。「まず与える事から始めろ。」
与え疲弊し、嫌になった。このコミュニティの人々だったが、ちゃんと蒔いた種は、芽を出した。僕は「与えられる幸せ」もちゃんと享受できる人間になっていた。

ドバイでの日々は、刺激的だったが、誰もが人を蹴落としてでも自分がビッグになるというエネルギーに満ち溢れていて、酸素が足りていないような気持ちになり、呼吸が苦しかった。

結局1年半ほど滞在した後

日本に帰国し、リゾバなどで料理をする日々が続いたが、見本通りに綺麗に盛り付けるという、料理人に必須スキルがいくら練習しても、習得できずに、日々罵倒をされ続け、料理の道を諦めてしまった。
再び、夢とか目標とかが人生から失われた。
そんな中、尊師カズキタから「モテアマスは10月で爆破するんだけど、5月から新しい物件でシェアハウスが始まるから住みませんか?」という誘いを受けた。
国内で安定した仕事をする事を何故かダサいと思っていた僕だった。しかし海外を飛び回って料理を作り続けた後に残った感情は虚しさだった。「もっと関係が密な空間で、仲間に料理を振る舞いたい。金持ちにキャビアが乗った寿司を出す先に、自分の幸せはない。」事に気付いた。
そんな矢先の尊師からの誘いに、自分の胸は踊った。ダサくても、理想と違くても、自分の為に再び自分の人生を使おうじゃないか。そう決めて、慣れないスーツを着た仕事に就職をし、現在はモテアマスの正式後続シェアハウスである「アーバンジャングル」で生活をしている。
アーバンジャングル(通称:アバジャン)では、Takerの被害に遭った過去がある人々が、集まったおかげで、皆がちょっと余分にモノを買って、皆がちょっとずつ他人のモノを食べている。「6:4の法則」がこの家では実践されている。
明るい人間が嫌いだった僕が、明るい人間としてこの家では認識されている。ここの住民は「他人の痛みを想像できる明るい人間」が多いなと思う。自分もそんな人間であり続けたい。
「23歳で、明るい人間が嫌いだったケニよ。お前は4年後プール付きの家を皆で借りて、テキーラを飲んでいる。ダサいと思うだろう?でもみんな、足が遅い肥満体系のお前を馬鹿になんかしないぞ。みんな愉快な変人たちだ。過去にしっかりと心から大量出血をして来ている。27歳までにお前も死んでしまうような辛い経験がまだあるけど、頑張って生を続けてみろ。」

本日、10月21日

自分は28歳になった。伝説のロックンローラーなら死んでる歳だ。自分は偉大なロックンローラーでも凄腕のシェフでもない。ただこの文章を読んでくれたあなたたち、仲間に美味しい料理を食べさせたい幸せな一般人だ。
誕生日にトンカツを揚げて、虚しくなった日から3年が経った。今日21日に、僕は個性的なスパイスが混ざり合った素敵なモテアマスのような魯肉飯を作ります。
大好きなあなた達は、僕の作った飯を食べて幸せになってください。それを見て私も幸せになるので。
この長く、暗いノートは23歳の春のカレーから始まり、28歳の秋の魯肉飯で終わる。

長文駄文失礼しました。人生が辛くなったら私のご飯を食べに来てください。

最後に告知です

モテアマス三軒茶屋が最終月に突入!2024年10月31日でお別れとなります。泣いても笑ってもモテアマスに足を踏み入れられるのは本当に最後になります!!
そして、最後の大イベントとして 10月26日(土) に『モテアマス爆破フェス』を開催決定!
サイレントフェスや伝説のすた丼など、盛りだくさんのコンテンツを詰め込んだ一日です。100人分の生ビールサーバーも完備!

爆破フェスを開催するために、7.9周年の感謝を込めて クラウドファンディング を立ち上げます!
支援が増えるほどフェスが豪華になる仕組みですので、ぜひ応援よろしくお願いします。

🔗 クラファンリンク:

皆さんのご支援とフェスへのご参加、お待ちしています!

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