見出し画像

開け自分2022

今年は、開く年にしたいなと思います。

明確に1年の目標を簡潔な言葉にしたのは多分2017年以来でしょうか。その時は、「もっと自分勝手になる」が目標でした。今でも覚えてる。

2022年は「開く年にする」。何を開くかというと、自分です。それで成したいことは2つ。
① 意識を外に開いて、ひととの関係を増やすこと。
② 自分の心を開いて、余分な思考やモヤモヤを排出すること。

もう少し具体的にするなら、例えば次のようなイメージです。

新たな人間関係をつくる。仕事でもプライベートでもどちらでもいい。自分にとっての新しいコミュニティを開拓する。(①)
空いた精神リソースを生活に向ける。自分のために自炊をして、部屋を片付ける。上手くできないんじゃないか、徒労に終わるんじゃないかという邪念を捨てて実行して、生活に達成感を与える。(②)
自分の考えをアウトプットする。精神的なことでも、仕事のことでも、趣味のことでも良いから、頭の中にあるものを文字にする。場所はnoteやTwitter、社内の会議など、オンラインオフライン問わない。(①②)

目標というのは、ありたい自分の姿を描いてその年のものを考えるのがセオリーかもしれませんが、私は自分がどんな人間になりたいかまだよく分かりません。とはいえ、自分が好きになれそうな自分を考えてみると、今掲げたい目標は上記のような表現に落ち着きました。


さて、こういうアウトプットになった背景について、書き綴ってみたいと思います。

昨年1年で得た感覚のひとつに、「意識のベクトルを外に向ける感覚」があります。これを育てて身に付けたい、というのが「開く」という言葉のの根っこにあります。

私はもうずっと内向的な人間で、それはこれからも変わらないと思うけど、意識を内側に向けすぎると、どんどん身体の中が澱んでいくのだと解ってきました。
もし、内側にあるものが自信に裏付けられたキラキラかがやく宝石であれば大して澱まないのでしょう。しかし私が内包しているのは自己否定の針山。考えれば考えるほど鋭利さを増す針が四方八方に伸びて、内側から自分を蝕み続けているわけです。
ひとの目が怖い。怖くて俯いた視線の先には、俯く自分への否定が刃を向けている。身を硬くするほどその針は深々と身体を突き刺していく。痛くて苦しくて、その針の抜き方や痛みのやわらげ方を必死に探す。その場でもがいて前に進めない自分への嫌悪と、他人からの蔑視が怖くて、どんどん身動きが取れなくなる。

「ひとの目が怖い」とまわりを気にしているのだと自分でも思っていました。でも、一番気にしていたのは、自分の精神に巣食う自己否定の針山の様子でした。

これに気付いたのは、仕事でプレゼンスキルの話が出た時でした。当時の上司が「聞く人を楽しませたい、こういう感情になってほしいと思ってプレゼンを作っている」という趣旨の話をした時に(正確には何度もそんなことは言っていたけどn回目の時やっと)、はっとしたことを覚えています。
「相手をこういうテンションにさせよう」みたいな考えになっていなかった。何かする時、何か言う時、私は自分の中の恐怖にかられ、恐怖を宥めることにリソースを取られているから。ついでに言うと、「相手の気持ちを動かせるほど理解できるわけがない」という諦観もあったから。

何か発言する時、あるいはその前後に、頭の中にあるのは自分に対する反省・叱責・否定・罵倒。そこから生まれる恐怖の正体を明かそうとする自己分析。意識のほとんどが、自分の内側に向いています。ベクトルの矢印を自らの胸に突き立てているような感覚です。

では、その自分に向けた矢印をぐるっと反転させて、外側に向けるとどうなるのか。イメージをした瞬間に、自省や自責に押し潰されそうな感覚がふっと消える(和らぐ)ことに気付きました。
自らを攻撃していた自己否定の針山が、視界から見えなくなる感覚。恐怖の対処に割かれていたリソースを「相手の反応を見ること」に変えられる。そしてその方が伝わるし、苦しくない。

やれている人には当たり前のようなことなのだろうけど、この矢印の転換、あるいは視点の転換は、私にとって青天の霹靂でした。

しかし、それが分かったとて習慣のようにこびりついた自己否定と恐怖心が簡単に拭えるわけではありません。外にベクトルを向け続けるのは別の恐怖があります。ふっと視界を戻すとやっぱりそこに針山は居て、心身の調子によってはどうしようもなく突き刺してきます。
浮いては沈んで暴れる波に溺れながら、少しずつ「外に開く」勇気が出てきたのが年末付近のことでした。

外側にベクトルを向けることで、自己否定と恐怖に割いていたリソースを空ける。そのリソースで、自分が好きになれそうな自分の在り方を目指した行動をする。これが、「開く年にする」と表現した背景です。

生まれ落ちた以上は生きなければならない。生きるなら苦しみが少ない方がいい。そのために他人との接触や関わりを避けるのがこれまで私のとれる方法だったけど、もう効かないだろうと思います。
いや、そちらの道を選び続けることも不可能じゃないけど、それは嫌だなと思うのです。
臆病なくせに、我ながら変なところで冒険しようとしてしまう。

私がどんな人間を目指しているのか、自分でもよくわかりません。
でも、自分が「快い」と思う在り方を求めたり「嫌だな」と思う在り方を避けて生きようとするなら、「いいかげん諦めてひととの関わりを増やせ」と自分の勘がぼやくものですから。


こういう精神のアウトプットをバンバンするのはさすがに負荷が高すぎる!

#note書き初め


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?