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ファイトクラブの考察 マーラとタイラー

改訂版を書いたのでぜひこちらお読みください。



ファイトクラブは真の映画だ。"観てない人は見た方がいいし観た人ももう一度観た方が良い"。

ファイトクラブには真の男になるためのノウハウやメッセージが詰め込まれている。
しかし、なにぶん心境や状況の説明が詩的であるため見た後にしっかり考える必要がある。
この記事は、主にそんな感じのことを考えて検索画面を開いたであろうお前を対象に書いた。

ファイトクラブは、ただイカれた男とイカれた男とイカれた女とイカれた男達がもみくちゃになる映画ではない。劇中では、不眠症の男が末期がんのグループセラピーに参加したり、かと思ったら見知らぬ男達と目的もなく殴り合ったりするが、すべてに意味があり、すべてが何かしらの戦いの隠喩なのだ。



あらすじ

自動車のリコール査定の仕事に携わる主人公は、それなりの収入があり特段のトラブルを抱えることもなく、高級家具に囲まれ一見充実した生活を送っていた。しかし、本人はどこか満たされず、不眠症を患う。
難病のグループセラピーに参加すると、不思議と熟睡することができたものの同じく仮病でセラピーに通うマーラ・シンガーと出会い嫌気がさす。

そんなある日、主人公はタイラー・ダーデンという男に出会う。タイラーは、俗にいう「ぶっ飛んだ男」で、物質至上主義社会へのテロリストだ。本人は物を持たず、定職も無く、家もほぼ無い。だが知識と筋肉を持つ真の男である。
タイラーとの出会いによって主人公は人と殴り合うことの充実感を知り、タイラーや、同じく殴り合うことで生の充足を得る人々との集団を見出す。

しかし、その集団はそのうちテロリスト集団へと変貌を遂げる。首謀者のタイラーを問い詰めると、彼は言った。「俺はお前だ」と。町中のカード会社に爆弾を仕掛けたという彼を止めるため、主人公は暴走する"己"と対峙する。

主人公と、タイラーという男

主人公は、端的に言うとナヨナヨとした腰抜けだ。女にはモテず、生きているという実感も薄くて自分の生活にも満足できない。一応悪事を止めようとする善性は持ち合わせている一般人ではある。

彼に名前は無い。作中で言及されることはなく、エンドクレジットでは「ナレーター」となっている。これは何故なら、主人公とは見ている観客自身だからである。感情移入をしやすいように最大の個性である名前が省かれ、あくまで一人称なのである。


それに対してタイラー・ダーデンは度胸と筋肉と知識、鋼の哲学を持ち、社会からドロップアウトしながらも自信に満ち満ちている。また、彼は「ジャックの脳髄」である。ジャックとは公式の解説などメタ的な視点で主人公の仮名として使われいる。

彼らは対象的であり、自分に無いものを持つタイラーに、主人公は強く影響される。

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作中で言及される「暴力」

主人公は、己を殴ってくれと乞うタイラーと殴り合い、痛みによって生きている実感、充実感を覚える。やがてそれは複数人の男達に広がり、無断で貸し切ったバーの地下室でのルールを伴った殴り合いに発展する。暴力によって充足感を得るということは、特別なことでは無い。

注意すると、この映画は決して暴力を助長するものではない。むしろその逆なのである。

あるシーンで、タイラーは煮え切らない態度を取る主人公の手に強酸をかけ「痛みから目を逸らすな」と諭す。
重要なのは、相手を痛めつけることではなく、あくまで自己破壊なのである。
主人公が末期がんのセラピーで安心できたのは、死に瀕している人間を目の当たりにすることで自らの生を実感したからだ。彼はまた、殴られる痛みによって生を実感し、生きる喜びを見出した。

タイラー・ダーデンの本性

タイラーは、言うなれば男性性の象徴である。精力、度胸に満ち、過剰な暴力性を併せ持つ。
ホテルのウェイターとして働いては、コーンスープに小便を入れ、ケーキにくしゃみをしたり、映画の上映技師として働いては子供向け映画にポルノ映像をサブリミナルしたりするし、無力な通行人におもむろに拳銃を突きつけたりする。

主人公とタイラーの最初の殴り合いは、実に平和的であった。暴力と無縁の生活には、良いスパイスだった。
しかし、暴力の味を知った主人公(タイラー)の暴力性はやがて内だけではなく外に向けられ始める。上司を脅し、美男子に八つ当たりしてぶちのめす。社会のインフラを破壊し、更には町中のビルに爆弾を仕掛ける。この頃はもう生の実感の域を超え、サディスティックな充足を追い求めている。またタイラーが失踪するが、これは主人公と暴力の化身であるタイラーの同一化が進み、他人事ではなくなったからである。


主人公は腰抜けだったが、タイラーと行動していたことで真の男になりかけていたので彼と対峙する覚悟を決める。
拳を構え殴り掛かるが、圧倒され打ちのめされる。暴力の魅力は強く、暴力の化身であるタイラーもまた強い。

主人公は、だが彼を倒すために立ち上がる。銃を持ち、自らの顎を打ち抜く。タイラーは驚愕の表情で斃れ、消滅する。「自らへの痛み」によって「他者への痛み」に打ち克ったのだ。

内なる暴力性の手綱を握り、主人公は男らしさと充足を手に入れる。


マーラ・シンガーという女

まだ終わらない。

映画の構成をみると、暴力を律するのはタイラーと出会うシーンとファイトクラブ、エンディングだけで、残りの仮病のシーンは説明できない。

この項で、三人目の主人公について解説する。

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まず、マーラ・シンガーとは、「腫瘍のような女」である。
友達もおらず、卑屈で、仮病を使って難病患者のグループセラピーに通う女である。

先に結論を言うと、彼女もまた「主人公の一側面」なのである。タイラーが主人公の脳髄なら、マーラは腫瘍なのだ。

なぜ、同一人物なのに別人として描かれているのか。
それは、タイラー(自らの暴力性)に打ち克ったように、マーラ(自らの卑屈さ)を受け入れることもテーマの一部だからである。また、マーラは「女性の象徴」としても描かれている。劇中で同一人物であると言及が無かったのは、人を愛するということは一人では不可能だからだ。

主人公は己の卑屈さ故に友達はおろか彼女も居ない。文句ばかり垂れている。なのに本人は重病を装ってセラピーで泣いているのだから鼻持ちならない。

男性性そのものでモテるタイラーはいとも簡単にマーラを抱くが、主人公にはできない。卑屈さゆえに自信がなく、マーラと仲良くなることもままならない。また別の意味として、自らの卑屈さを受け入れられないという暗喩。


そんな主人公も、タイラーに影響され、その魔の魅力に打ち克ち、真の男に限りなく近づく。限りなく近づいた主人公は、マーラ(女性)をまさに男らしく口説き、(自らの卑屈さを)受け入れる。

結末

この映画のラストシーンはというと、見つめあう主人公とマーラが、爆発によって倒壊するビルに巻き込まれるところで幕を落とす。

初見では、せっかく男らしくなったのに殺すのか?と誰もが思った。誰もが。しかし、これは希望に満ちたラストなのである。実際に見つめあう主人公とマーラは幸せそうだから違いない。

このラストシーンは、本当の死を表しているのではない。暴力を律し、卑屈さを受け入れた勇気ある"腰抜け"が死んだ、という暗喩なのである。

タイラーを倒して真の男に限りなく近づいていた主人公は、あれだけ避けていた卑屈さをも受け入れ、真の"真の男"に生まれ変わったのだ。

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つまり

これは社会に植え付けられた幸福像のようなものに支配された腰抜けの主人公が、本当の幸福を見つけ、真の男になる物語なのである。


この映画は、資本主義社会の中で堕落し、預金残高や住居、アクセサリーの値段が人間の価値だと信じ込み、行動も起こさず異性と仲良くなろうともせず日がなSNSでチャチな承認欲求を満たし、意味もなくYoutubeやNetflixをザッピングし、生きているという実感も無く永遠に満たされない感情の中、そして死んでいく人間達へのバイブルなのである。何も考えず大衆に染まるな。人間のあるべき姿と自らの充実を追求しろ。満たされない自分や生活と向き合え。そうゆうメッセージを強く突き付けてくる。


おわり


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