チェコ映画とアップリンクについて
アップリンクは、私の高校時代の青春が詰まった場所だ。
当時チェコ映画などというマイナーなジャンルは、少なくとも私の狭いコミュニティの中では全く知られていなかった。ここはチェコに陶酔する、私の数少ない居場所のひとつだった。
あのスタイリッシュな赤い看板をドキドキしながら潜り、渋谷にある小さいけれど温かい空間が、私を少し背伸びさせてくれた。
私のファースト・チェコ映画はシュヴァンクマイエルのFoodだったと思う。YouTubeでたまたま見つけた(なんかかっこよくない、チェコに似合わず現代的すぎる出会い方)。
今まで見てきたどの作品のどんな世界観とも当てはまらない、あの独特な空気感、音、全てが古いはずなのに新しく、一瞬で虜になった。
誰も知らないであろうマイナーなジャンルを知っているというあのころ特有の優越感のようなものもあったかもしれない。
当時「食べること」に苦手意識を持っていた所がシュヴァンクマイエルと同じで、遠くのおじいちゃん(監督)に勝手に親近感を覚えたりした。
作品が衝撃的すぎて、銀座で開催されたチェコチェコランドの即売会のイベントに参加した(2016)。学校帰りに友達に乗り継ぎを教えてもらい、初めて銀座に降り立った。チェコチェコランドのおっちゃんは、ますます私のチェコ好きを加速させた。
チェコ映画の世界に引っ張ってくれた、シュヴァンクマイエルやアマールカを広めたチェコチェコランドのおっちゃんが、銀座の一角で私しかお客さんがいない中チェコ映画についていつまでも話してくれた。本当に2時間くらい話していた気がする。
シュヴァンクマイエルの犬がどう見てもオオカミみたいだったとか、その時の監督の写真が可愛かったとか、おっちゃんがアマールカなどのチェコアニメを日本に運んできたとか。
その後、そこに入ってきた夫婦と仲良くなり、東京の東京らしいところをたくさん案内してくれた。
旦那さんのことを死神さんとだけ呼んでいた、名も知らぬ方と、チェコ映画から始まるとても素敵な出会いをし、映画にもますますハマっていった。
展覧会にも行ったなぁ。ここで初めて生のコラージュや、映画の題材となったパートナーの方の絵を見れた。
チェコ映画で調べると、大体出てくる人は決まっていた。たまに字幕を間違えちゃうペトル・ホリーという翻訳者か、そのおっちゃんか、イベントを主催している人か…などなど。ペトルさんはよく名前を拝見するので、きっとすごい人なのだと思う。確かイベントにも出演していた。でもヒナギクの最後の字幕を間違えるのは辞めて欲しいです。あそこが1番重要だと思うので…。1年生の時の論文でひなぎくについて少し書かせていただいたが、あの訳で少し混乱した。ano,anoの場面では、確かお父さんが翻訳したとかで、相槌なのに意味が逆だったりとか、「踏みにじられたサラダだけを可哀相だと思う人に捧げる」の所も逆に書いてあったり。ここがいちばん重要なところ…サラダ以外も可哀想って言ってあげて…
この頃から、チェコ映画を好きでいていいのだ、という謎の自信が生まれた。そしてチェコ好きのコミュニティを知り、大人なのに対等に好きな物について話せる友達が増えた。
アップリンクの「This is チェコアニメ!」の夜から始まる映画に、大人の世界だ〜とドキドキしながら行った。今でも、映画の内容は忘れてしまっているが、チェコ映画特有の温かな絵柄や色の温度、同じようなジャンルが好きなんだろうな、というおじさんなどと一緒に大きな赤い椅子で、ぼんやりと小さな画面を眺めた。
高校生でそこに居たのは私だけだということも、何だか大人になった気がしてドキドキした。
ユジク阿佐ヶ谷にも何度か行った。入ったところの大きな黒板描いてあったひなぎくの絵がすごく可愛くて、見る前からワクワクしていた。布で出来た家はまだあるのだろうか。あの空間にいる時だけ、自分が何だかすごく価値のあるものに思えた。大好きだった。初めてひなぎくを見たのがユジクだった。内容に衝撃を受けて、あの二人の主人公になった気分で全てを壊しながらルンルンで帰った。
この思い出の回顧だけで終わろうと思ったけれど、やっぱり思い出した原因についても少し言及したい。
完全なる第三者ではあるが、以前から疑問に思っていたことがある。
アップリンクの代表が元従業員にパワハラをしていたことが公になった。
当たり前だけれど、声をあげないと気づいてくれない。
世間に、被害を受けたということを伝えるためには、自分一人がどんなにひどい被害を受けていてもなかなか世に訴えるまでにはいかない。
現在辛くても、このように声をあげられる環境が整った人はきっと少ないだろう。
やはり1人だけ傷ついていてもなかなか声をあげ辛い、という難しさも何となくわかった。
そもそも、なぜパワハラをできる人間が存在するのだろうか。
基本的に自分がされて嫌なことは人にもしない、という大前提に全ての人が生きていると思っていたが、「社会」という謎空間はそうではないようだ。
上司と部下の関係だって、言ってしまえば全くの赤の他人である。
育ってきた環境が全く違う「他人」に怒鳴ったり、その人の人格を真っ向から否定するような言葉を投げることができるのが、よくわからない。
そしてそのような人は「社会」では精神的に未熟だとされないのか。なぜ「代表」の地位を得られるのか。なぜこのような人に着いていく人がいるのか。もしくは着いていく人はいないかもしれないが、人を傷つけていい、という考えになるのか。
これは今回に限らず、そのような人間に対してはずっとわからないでいる。
パワハラをされたら、その被害者が会社を辞めるというのがおかしい。ついでに言うなら、いじめられた方が不登校になり、学習の機会を奪われるのもおかしい。
彼らを誰も理解が出来ないから、話が通じる被害者への「逃げてもいい」という雑な言葉で、さらに苦しむことになる。加害者が去れば良い。
今回のケースはまだよくわからないし、双方の話を聞いたわけでもなく、私が聞く理由はない。
ただ、あのアップリンクが、とかなりショックだった。
私が少し背伸びすることを許してくれたあの空間が大好きだった。
あの時の素敵な作品を見た酩酊感の隣で、丁度映画中に怒鳴られたばかりの従業員がいたのか、
最初は映画が大好きだという気持ちが、その気持ちを与えたかもしれない組織によって嫌いになってしまったのでは無いか、恐怖の方が大きかったのか
もう耐えきれないという気持ちを抱えた方がいたのか、と思うと、悲しい気持ちになってしまう。
彼が作った最高の空間で、最高に充実した2時間を過ごした私のその時間は、そんな悲しみによって作られていた可能性があるのかと思うと、あの映画の大切な温かさまでもが失われていくように感じた。
時々思い出して大切にしまっておいた箱からそっと出して眺めるように、きれいな思い出のままで残しておいてくれなかった
ねえ私はすごく悲しいよ。あの最高の空間が、誰かが傷ついて成されたものだとついさっき知ったこと
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