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なにも成せない焦りの正体、そしてそれと折り合いをつけて生きる②認められたい

やなです。他者の承認が欲しい話です。「自分が価値ある存在だと認めてほしい」「自分の頑張りが誰かに見てもらえることで報われてほしい」という承認欲求も私にはあるんですが、今回はそれとは若干違う話をします。


生きているとたまに、「あなたの生き方・考え方は傍から見ても理解できる」「このままの方針で進んでよし」という他人からの肯定が欲しくなる時があります。


学生の一人暮らしもどきは、選択と自己表現の機会が多いです。部屋の物の配置や、何を買って何を捨てるか、何を食べるか、何をやるか、時間をどう使うかの選択。


当然の事ですが、選択した事/しなかった事による変化、不変化にはたいていメリットやデメリットが付きまといます。


そしてちょっと上手くいかない時などは、(本当にこれで良かったか?今それをする必要はあったか?もっと良い選択肢があったんじゃないか?その購入によるメリットは値段に釣り合っていたか?)という後悔が脳内で芽生えやすくなります。


例えば、
デシカント式の除湿機買っちゃった(デシカント式はコンプレッサー式よりも部屋が暑くなりやすい上に電気代を食う)(でも持ち運びやすく湿気めっちゃ吸ってくれる)、
買ったマットレスが分厚くて重い、もっと安くて軽くて寝心地変わらないやつもあったかも(調整の結果寝心地は悪くない)、
一番栄養バランスが良いであろう寮食があるのに利用せず、時間と手間かけてご飯作ってる(寮食より美味しい)
一度血便出て大腸検査受けようとしたがやめたので腸に不安が残る(お金が浮いた)


そんな時、とりあえず解決不可なデメリットは気にしないことにして(もしくは上手くカバーして)、メリットを見て「よし」と出来ればOKで、たいていの事は自分の「よし」で片付くんですが、信頼出来る誰かの「よし」がたまに欲しい時もある。そんな話でした。


でもこの他人の「よし」があっても、必ずしも選択の信頼性が上がるわけじゃないのがつらいとこです。他人の身体と環境では「よし」でも自分の身体と環境ではそうじゃなかったりするので。


結局自分の健康も暮らしやすさも、何に手間をかけるかも決めるのは自分なんですよね。


自分の選択にかかる(かもしれない)責任が重たいな、当然一人で背負うんだけどちょっと軽くしたいな、でも軽くならないんだよな、というのに近い話だと思います。(おそらく)


次回、間接的な障害物にめげないようにしたい話ができればと思います。では。


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