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実は好きくない?

【発端】

何かのSNSで『なぜ日本はハリウッドや韓国のような演技の上手い人がいないのですか?』といった質問を見た。
回答に、『俳優を育てる環境が社会にない』と。さらに『もしかしたら、日本人はこの分野を好きじゃないのかもしれませんね。だって、好きなら育てるでしょ?』といった趣旨の内容も綴ってあった。

なるほど、と妙に納得した。
そして、考察が始まる。


まず、この記事をおよび考察をするにあたり、まともな資料を確認せず、完全なる憶測と妄想で出来上がっていることをここに記す。
(wiki程度は除く)
間違っても「あの文献にはこうあった!」などと言わないように願いたい。だって調べてないもの。
なので、『考察』と記しても『妄想』であるで注意願いたい。言いたいだけである。紛らわしい。


1.【好きじゃない可能性を考える】

1.1.とっかかりとして好きを考える

まず、私の心に引っかかっていた「育てる環境がない」に対して「好きじゃないから」という、意見に衝撃を受けたため、そこをとっかかりに考察することにした。

仮に、本当に『好きじゃない』としたら何故なのか?そして、『好き』とするハリウッド等の日本以外と比べて何が違うのか?ここを考察してみる。(注、妄想)

1.1.1『好き』なものは何か?

好きとは何か?人が夢中になるものとは?
真っ先に浮かんだのが『娯楽』である。
『娯楽』と呼ばれるものは楽しいはずだ。楽しいものは好きなはずである。
つまり、娯楽と認識されるものは愛される『好き』になるのだと定義する。

1.2.日本の娯楽は?

では、日本の娯楽とは?
双六、蹴鞠、茶湯…etc、まず思いついたこれら。昨今の大河ドラマからの受け売りである。
これらは高貴な方々の遊びであり庶民には根付いていない。また、権力者が変わるとブームとして去ってしまう側面が強い。一過性の高貴な戯れである。
一方で庶民はどうか?
庶民娯楽は江戸時代に成熟したと仮定する。この時の娯楽物は次のものを想定した。
『酒』『博打』『浮世絵』『貸本』『落語(話芸)』『歌舞伎』『相撲』
(双六も博打要素を含むのでみんな大好き博打)
『釣り』や『料理』などは現代でこそ趣味や娯楽として行っている人もいるがもともと生活の為の行為が発端であるため、万人受けしない点で除外した。次の条件に入るものは今回の『娯楽』の観点からは除外したことになる。
・生活に必須であったもの
・宗教、政治、軍事など庶民生活に直結しないもの

1.2.1.日本の庶民に好かれた娯楽とその性質

では先に列挙した娯楽の現在について考察(注)する。
ここで注目したのは、どれも既に受け継がれていることである。江戸時代に好かれたものは、規模の大小は別として現代日本にもしっかりと引き継がれているのである。しかし、引き継がれ方の違いを考察(注)すると、組織的に行われたものと、自発的に発展したものに分かれる。組織的に残っているは『歌舞伎』『相撲』とする。そして、個々の発展などにより残ったのが『浮世絵』『貸本』『落語(話芸)』と考える。
これを踏まえたうえで、現代日本の娯楽を列挙し対比してみる。
『マンガ』『文学』『漫才などのお笑い』
『マンガ』=『浮世絵』+『貸本』or『落語(話芸)』
『文学』=『貸本』
『漫才などのお笑い(落語も含む)』=『落語(話芸)』
現代日本においても、高い人気を誇る娯楽と一致することがうかがえる。
これら個々に発展し受け継がれた娯楽は次のような性質を持つと考える。
「受け手側が個々に想像力を働かせて、前後譚や人物の人相、その他あらゆる未確定要素を勝手に発展できる余地がある」ということである。
始めは頭の中で登場人物の人相や背格好、情景を想像することから始まり、次第に『二次創作』まで発展が可能である。
つまり、個々に発展を遂げたものは、「オマージュ」「パロディ」「パクリ」その他、いろいろな方法でいろいろな人間が『創造』できた世界なのである。

1.3.日本人にとっての好き、嫌いとは

以上を踏まえ、日本人が本当に好むのは『創造』であると定義することができる。江戸の時代、『浮世絵』を見て人々は何を想像したのか?『貸本』を読んで思い浮かべた情景は?『落語(話芸)』に出てくる「ご隠居」の風貌や如何に!?
ここから、日本人は「空想」「想像」「創造(二次創作)」をごくごく自然に体得しているのではないだろうか。否。体得していると考える。
つまり、『創造』こそ最も好きな『娯楽』だと考察(注)する。
逆に、『創造』の余地を残さないものは「苦手」又は「嫌い」といってもよいのではないだろうか。



2.【演劇、映像に関して考える】

2.1.映像作品に対しての考え方

そもそも今回の発端は、『なぜ日本はハリウッドや韓国のような演技の上手い人がいないのですか?』という、映像作品に対する質問である。
というわけで、映像文化の側面から考察()をしていきたい。

2.2.映像作品と舞台演劇

さて、映像作品と言いながら、いきなり舞台演劇を混ぜ込む。
何故かというと、映像機器が発達するまでの演技は、主に舞台の上で行われていたからだ。そのため、映像の祖を舞台演劇とし、そこから考察()を重ねていく。

2.2.1.日本の舞台演劇と西洋の舞台演劇

先の娯楽で、「歌舞伎」を上げたが、あれは日本の舞台演劇である。しかし、ここで論じるのはアマチュア小劇場演劇(新劇やアングラ含む)や、宝塚や2.5次元などの商業演劇についてである。つまり、歴史として比較的に浅めの舞台演劇と定義する。
これらは、西洋にみる舞台演劇の模倣として取り入れられたと考える。
一方、西洋の演劇は「宗教的儀式」に端を発する説がある。「典礼劇」と呼ばれるものがそれに相当すると定義する。つまり演劇は布教のための一手法である。
ここに、日本における演劇と西洋における演劇の「好き」に対する違いが現れるのではないかと考えた。

2.3.布教活動としての西洋演劇

西洋の演劇は「典礼劇」である。
教義を可視的な形で教示するために行われるものである。つまり、解釈は『唯一無二』でなくてはならない。
日本のように八百万もいない。唯一である。
つまり、西洋の宗教に端を発する演劇は、演目の解釈を受け取り手に委ねない。正しく教義が伝わることこそ正解である。
つまり、視覚、聴覚に対し具体的な情報を与え誤解なく伝える必要がある。
スタニスラフスキーシステムやメソッド演技法などの演技法・演劇理論は、その役をよりリアルに表現するために生まれた技法である。すなわち「具体的な情報を与え誤解なく伝える」為の技術を習得するための物である。
演劇の始まりが「典礼劇」であるならばこその絶対的条件である。

2.4.映像演劇

次に映像演劇である。そろそろ疲れてきたのと、最初に書こうと決めてから1week以上時間がたってしまったので、書くべき内容を忘れつつある。
録画技術が発明されたことにより、舞台演劇はアーカイブされるものとなった。また、舞台をそのまま撮るものから、映像専用の作品制作まで発展することに至った。
可視化された状態の情報は、「具体的な情報を与え誤解なく伝える」ことができる。
俳優の声、顔、息、時間、風景、季節、etc…、あらゆるものが可視化され、より具体的に、表現を固定するコンテンツとなった。



3.【俺たちは白黒つくのが嫌いなんだよ】

3.1.日本人は曖昧が好き。白黒嫌い。

すごい決めつけだが、大外れでもないと思うのでこのまま進める。
日本人は白黒つけるのが嫌いである。
グレーゾーンを好み、柳のごとくゆらゆらゆられてらいらいらい。
この考え方から行くと、「1.2.1.日本の庶民に好かれた娯楽とその性質」で論じた「受け手側が個々に想像力を働かせて、前後譚や人物の人相、その他あらゆる未確定要素を勝手に発展できる余地がある」ものが圧倒的に人気が高くなる。
マンガ、文学、話芸、である。
思い出してほしい。
『マンガ』『小説』原作の『アニメ化』『映像化』。
「絵が(私の考えた)原作と違う!!」
「声が(私の考えた)原作のイメージと違う!!」
「俳優が(私の考えた)原作のイメージと違う!!」
「舞台となる場所などの風景が(私の考えた)原作のイメージと違う!!」
そのような原作ファンの声をよく耳にする。
受け手が創作した世界を壊すのが『映像化』である。
より正確に定義するなら、『他人が創作した原作の世界観を強制的に見せつけられる』ものが『映像化』である。
このうち、突出した『他人の創造物』は『私の考えた』から外れるため受け入れられやすい。
監督や脚本家がオリジナルで他メディアで原作が無い作品がそれであるが、その他にも『京都アニメーション』が手掛けた四コマ漫画原作アニメや、やたら会議の多い『シン・○○』などもそうではなかろうか。

そして、ストーリー自体にも違いはある。
登場人物の陣営や、物語が進んだ結果が白黒つかない場合も多々あるのだ。
「水戸黄門」のような印籠で悪代官を懲らしめるものもあるが、「ポプテピピック」のような何がなんだかわからないものまで存在し得る。後者は結論など期待してはいけない、が楽しいのだ。

3.3.ハリウッド映画は白黒つけがち

一方で、ハリウッド映画はやはり白黒つくものが多い。
「敵襲来」→「窮地に」→「対抗策を得る」→「見事撃退」
「不本意な職に就く」→「上司の不条理に耐える」→「次第に好きになる」→「最後に本来の夢を叶える」
物語の最後に続く未来は「今までの延長」ではなく「明るい未来」である。
主人公が窮地に立たされたりと手に汗を握るが、コクピットごと隕石に押し付けられた状態で終話するようなことはない。
たぶんないはずである。ないんじゃないかな。ま、ちょっと覚悟しておけ。

但し、心から嫌いなのではない。
思考を働かせたくない時もある。そんな時、白黒つけてくれる作品は見ていて心地いい。
人は生きるとき、判断の連続である。
創造物くらいは何も考えずに観てもいい、観たいじゃないか。
だから、映像が『好き』な人はなくならない。



4.【最後はやっぱり好きだから】

嫁と考察()した結果、『日本人は映像が好きくない』(ただし推し除く)という結論に至った。
そのため映画、ドラマ、アニメの映像作品は作り手の道楽として捉えられており、社会全体で育てることが無い。
社会全体としては、道楽でやっているものとされ、提供者は消費されているように見える。

今回は、現状の映像業界を育てる土壌が無いことについて論じたが、逆に可能性も見えたともいえる。

『好き』なら推せるのだ。
2.5次元劇や、宝塚歌劇団などが顕著である。
その他、歌舞伎などもこれに当てはまるであろう。

では映像業界はどうか?
ハリウッドや韓国などにみられる、すべての俳優を最低限のレベルまで育てるという土壌はない。
しかし、映像作品のエキストラに「ボランティアエキストラ」が増えた。
下積み(?)俳優からしたら「仕事を奪われる」状況かもしれないが、「映像作品が好き」な人々に業界が支えられているという側面もある。

日本は、『好き』な人がその業界を推し、創り、そして牽引していくのだ。
名前は同じでも内容は新陳代謝を続け、変遷していく。
今も昔も、物を創る業界はすべからく不安定ではないのか。


最後に、この妄想に付き合ってくれた妻に謝辞を述べて終わりにしたい。

以上。


この記事は、後から読み直してどんどん書き換えます。
原型をとどめないかもしれません。
予告なくやります。
私のnoteはそうやって作ってます。
m(__)m