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旅で「夫」と「私」を再発見した話

私はあやふやで選択肢の多い未来に、具体的なプランを作ることが苦手だ。

選択肢①と②の二つからどちらかを選ぶ、などという時には迷わない。二択なら決断は早いし、選ばなかった選択肢に心を残すこともない。

けれど、一度に大量の選択肢を示されると、その中で「これ!」を選ぶことができない。どこに行く時も、旅行情報誌を見ないようにしているのは、あまりの情報量にクラクラするからだ。所さんのダーツの旅のように、「そこに行くこと」が何者かに決められている方が楽だとさえ思う。行けば行ったで、どこでもそれなりに楽しめる自信はあるので、行き先がメジャーな観光地でなくとも気にならない。山と海と田んぼがあれば、そこそこ満ち足りた気持ちでいられるのが私なのだ。

自分が複数から一つを選ぶことが苦手だ、とはっきり気づいたのは、この連休に夫と二人で能登半島を旅してからだ。
以前から、私と夫はまるで性格が違うと思っていたが、旅をするとそれが際立った。
広大な能登半島から、よく知らない、行ったこともない観光地をチョイスするだけでも、私は途方に暮れてしまうのに、夫はサクサクと目的地を決定していく。滝、海、温泉、道の駅、グルメ、遺跡、博物館。

なぜ選べるのかが不思議だった。知らない場所なのに、何を手がかりに選択しているのだろう?どこが際立って面白そうだったのだろう?あそことここは、何が違うのだろう? 疑問が頭の中で渦巻く。

そんな私に夫は言う。
「悩んでる時間が惜しいと思わない?」
それはその通りだ。だから悩まなくていいところを旅したいのが私なのである。

実は、私はこの二週間ほど前にも、一人で沖縄を旅している。
この二つの旅を比較すると、気楽さは一人旅に軍配があがったが、濃密さや体験の豊富さでは、夫にプランを任せた旅の方が断然面白かった。

私の沖縄旅は、小さな島の中を探検し、毎日同じ海で泳ぎ、毎日同じ店で夕飯を食べ、毎日同じ宿に泊まることで成立していた。言ってみれば、旅の中に「日常」を作ることに心を砕いていたようなものだ。ベースキャンプを中心に、知っている場所を少しずつ広げていき把握する、農耕民チックなやり方。それは、私の安心を大事にした旅の作り方だった。

一方、能登の旅は、毎日100キロ以上運転移動し、毎日違う場所で食事し、毎日知らなかったものに突然巡り合い、毎日知らないところで眠った。遊牧民の暮らしのよう。毎日が未知との遭遇で、スリリング。先がわからないドキドキ感。

これは絶対、私だけではできないタイプの旅だった。子どもの頃から、冒険譚が好きで憧れ続けているわりに、私はビビリで知らないところへ一人で行くのは腰がひけがちだ。一方、夫は子どもの時から「趣味は迷子」というほど、見知らぬ土地をふらふらするのが好きなのである。

その上、夫は、絶対間違いたくない、損をしたくないという意識が強いので、自分が行った土地に、あとから面白いものがあったとか、おいしい店があったとかというのが許せないらしい。徹底的に調べ上げて、常に複数の候補をピックアップしている。何でも「まあいいか」と簡単にあきらめる私には、このまめまめしさは、まねできない。単純に凄いと思う。

どちらか上とか下とかではなく、この違いが私たちなのだなあと思った。
違うから嫌だと思っているところも、もちろんあるのだけれど、基本、違いは面白い。
自分とは違う人の視線で見るから、自分のこともちょっと分かった気になれる。

夫を再発見することは、自分を再発見することでもあった。
30年ぶりくらいの二人旅は、知らない夫に出遭う旅だった。

**連続投稿104日目**

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