全然違う二人が一緒にいるために身に着けてきたこと
テレビのニュースで、北朝鮮からまたまたミサイルが飛んできた、と言っている。
夫と夕飯を食べながら、私は、こういう時にいつも疑問に思うことをふと口にしてみた。
「遺憾の意を表明してみたり、厳重に抗議してみたりっていうけど、何回言っても全く効果が無いことを、どうして繰り返しているんだろう?」
ひとりごとのつもりだったのだけれど、隣で魚の身をほぐしていた夫が、反応した。
「あれは、やり方がまずいんだ」
「へ?」
「俺なら、二度と撃たせないようにできる」
「そうなの?」
「おう」
「じゃあ、定年後は政治家を目指したらいいんじゃない?」
「……」
たぶん、夫は「どうやって?」とか、具体的な方策について、興味を持って聞いてほしかったのだろうと思うのだけれど、長くなりそうだったので、さらりと流してしまった。
夫も慣れたもので、特にがっかりした様子もなく黙々と焼き魚を食べ続けている。
30年以上前、出会った頃は、こうはいかなかった。
夫は、初めてできた彼女、つまり私と、あらゆる知識を共有したがった。
その上で、対等に議論できる関係を築きたかったようで、私にはまったく興味のない、マルクス主義がどうのとか、吉本隆明がどうのとか、なんだか分厚い本を「読んでおけ」と貸されたりしていた。
申し訳ないが、一冊も読んでいない。
今思うと、なぜ、この二人が付き合うことになったのか、本当に不思議な組み合わせだったと思う。
夫は、中学生のころから「将来の夢は革命家」と思い定めており(それもどうよ?と思うが)、社会に対する関心が高く、現代史や、現代思想史を語らせたら止まらないような人だった。
対する私は、授業で習ったことのない歴史は、まるで分らない、興味もないタイプ。(進学校にありがちなのだけれど、受験に出ないパートは、授業でまったく教えない。先生方も「戦後史は、興味があれば自分で調べておいてね」という態度だったので、当然のように知らずに生きてきた)
たぶん、付き合い始めの頃だったと思う。
夫の提案で『キリング・フィールド』という映画を見に行くことになった。
私は、勝手に「アフリカでキリンを追いかけている人が撮ったドキュメンタリー映画なんだろう」と思いこみ、この人、案外動物好きなんだなと、ほほえましく当日を待っていた。
ところが映画には、最後までキリンは一切出てこない。
途中から人が迫害されたり、殺されたりする様子が延々続く、まったくほのぼのしていない話だった。
見終わって、夫に
「全然キリンが出てこなかったねえ」
と言うと、
「お前は馬鹿なのか? 『キリング・フィールド』は『Killing Field』であり、カンボジアのポル・ポト政権下で実際に起きた大虐殺を題材にした映画だ」
と返ってきた。
私は「ポル・ポト」なんて名前を聞いたのも、その時が初めてだ。
以来、私は夫に「こいつは馬鹿だ」と思われているのだが、馬鹿でもなお、「知識の共有」や「対等な議論」を諦めきれなかったようで、本当にしつこく、ある時は遠回しに、ある時は直接的に、もっと本を読め、と言われ続けてきた。
本は好きだったし、読んでいた方だと思う。
ただ、革命家志望の夫とは読むものが違っただけなのだが。
そんなこんなで、私は夫とうまくやるために、夫が熱くなりそうな話題を避けるというすべを身に着け、夫は夫で、馬鹿にものを教えるのは大変だからもういい、と諦めた。
つまり、回避と諦念が、ここまで関係が続いた秘訣であると言えそうだ。
きっと探せば、他にも細かいことがたくさんあるのだろうが、先ほどのニュースで、そういえばキリンが……と思い出したので書いてみた。
とりあえず、毎日楽しいから「これでいいのだ」と思っている。
**連続投稿249日目**
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