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天狗党聖地巡礼・蠅帽子峠への道①

もう一回行こうと言われたら、断固お断りする。
しかし、それでもあのとんでもない経験は楽しかった。
限界まで体を酷使する経験を、一回はしてみるものだと思った。
すでに米山君がヤマレコに詳細を書いてくれているけれど、私の目から見た、天狗党の聖地・蠅帽子往復の顛末を書いておこうと思う。

※天狗党を全く知らない方は、私のザックリ解説をどうぞ。

はじまり

蝿帽子峠に岐阜側から行ってみるけど、一緒に行きますか?6月18日か19日あたり。行くなら沢ルートではなく登山道(荒廃)往復で日帰り7時間くらい。朝、現地に来られれば。

こんなメッセージが旧友の米山君から届いた。
普段、平地も歩かない私が山道を7時間も歩けるはずがないので、一旦はお断りしたのだけれど、何しろあの蠅帽子峠である。
一人では絶対いけない難所に、山男がエスコートしてくれるというのだ。
ぎりぎりまで迷って、とりあえず、山を見てから決めようと、登山口のある「大河原集落跡」に向かうことにしたのだった。
ちなみにその時送ってもらった地図がこちら。

さらにちなみに、私は地図が読めない。読めたとしても登山をしないので、標高差がXmと言われても、まったくピンと来ない。

蝿帽子峠まで標高差600m弱なので、標準で上り2時間、下り1.5時間だけど、どうする?道路から尾根末端の登山口への渡渉のところは我々がいないと危ないので向こう岸で分かれるわけには行かない。

2度目にもらったメッセージは、往復の標準時間が3.5時間とあったので、私が一緒だから余裕をもって倍の7時間と計算してくれたのだな、ということはわかった。
が、しかし600m登って降りてくる、ということがどれくらいしんどいものなのかは、やはりわからない。
Google先生に訊いてみると、だいたい、マンションだと1階当たりの階高が約3m。
つまり200階建てのビルに徒歩で上るのが600mの登山だ。
うちは社宅の4階にあるので、その50倍。
休み休み行けば、なんとかなりそうかな、とその時点ではお気楽に考えていたのである。
お気楽というのは、私の美点でもあるが、最悪の欠点でもあると思う。

根尾西谷川を渡る

大河原にある、車を3台も停めたらいっぱいになりそうな、駐車スペースにバイクを止めて川を渡る準備をする。
裏がフエルトの鮎釣りシューズに履き替えていると、同行者のまっちゃんさんが、車のカギをジプロックに入れて草むらに隠している。
山で事故に遭い、カギを持った人がいなくなってしまうと、携帯電話の電波が届くところまで移動して助けを求めるにも、移動手段がない。
だから、万が一の時のためにカギは置いていくものらしい。
山に登る人の常識なのだそうだ。
知らなかった!
万が一は考えたくなかったけれど、念のため、私のバイクのカギも一緒に隠してもらう。

準備ができたら、河原の草むらを歩いて川に向かい、比較的浅いけれど水は相当冷たい根尾西谷川をわたる。
水深は、一番深いところでも膝くらいだったろうか。
川岸には、木に結び付けられたロープが先人の手で残されていた。
渡渉に慣れていない人は、それを張ってもらってつかまりながら渡るのだそうだ。

もちろん、天狗党が通過した時にはロープなんてなかったし、水は今よりもっと冷たかったはず。
冬場なので、水量は少なかったと思うが、それにしても、雪も降る中、川に入るのは勇気が要ったことだろう。

登山開始

川を渡った時は、まだウキウキ探検気分で元気もあったのだが、山を歩きだすと、とんでもないところに来てしまった、と思った。
道が無いのである。
10000歩譲って、高尾山のようにケーブルカーやリフトが無いのは、仕方がない。
けれど、道までないとは思わなかった。

もらったメッセージにも「登山道(荒廃)」って書いてあったことだし、荒れてはいても、それらしきものは何かあるのだろうと思っていたのだ。

「何を甘っちょろいことを。天狗党が通過した時には、積雪でもっともっとしんどかったはずだ。」(←私の心の声)
それは、もちろんそうだろう。
けれど、マニアがそこそこ登っている山なのだ。
道くらいあるだろうと思うじゃないですか。
それが、とんでもない勘違いだった。
マニアとは道が無くても登る人たちのことを言うのであった。

川を渡ったところには、尾根の入り口にお地蔵様がいらっしゃる。
「乳くれ地蔵尊」というお名前がついている。
雪で押しつぶされないようにという配慮なのか、岩室の中に座ってこちらを見ておられる。
1864年12月末、もしも、まだ雪が積もっておらず岩室が埋もれていなければ、きっと、お地蔵さまは、天狗党の面々が、川を渡って尾根を登っていくところを見守っていたことだろう。

天狗党がこの地を通過した時の積雪が、実際どれくらいだったのか、具体的な数字は実はよくわからない。後世に書かれた小説等では、3~4尺とか6~8尺とか説明されていたりするのだが、実際の浪士の日記では、こうなっている。

「12月4日 伊藤記に言う。大河原村泊り、翌日大雪降るに而、蠅帽子峠越え、この峠、美濃越前の国境。それより秋生村に出、雪降に而、難渋ながらも、黒遠出までまかりこし候。右は高山、左は谷川、細道に而、大木切り倒し候所を漸参り候ところ、夜に入り候につき、合薬付候(大砲か鉄砲の弾を運んでいた)馬一匹谷川に落とし申し候」

「水戸浪士西上録」昭和九年 石川県図書館協会発行

これでは、積雪に苦労したのか、降雪に苦労したのか、ちょっと読み取れない。
「人の腰くらいの深さの雪が積もっている急峻な峠を馬を引いて歩いて、犠牲がこんなもの(馬1匹、人間5人)で済むわけがない」という説もあり、この年だけ、奇跡的に雪が積もるのが遅かったのかもしれない。
ただ、ころころ変わる北陸の冬の天気から想像するに、蠅帽子峠越えは、雪が降ったりやんだり、風が吹いたり、雷が鳴ったり、とんでもない悪天候の中を苦労して進んだのは間違いないだろう。

光武敏郎さんの「天狗党が往く」という本の中では、登り10km下り8kmの峠越えを、天狗党は約7時間でやってのけたことになっている。
膝より深い積雪の山道18km(標高差600m)を、ろくな装備も持たない人間が7時間で歩けるものなのか?とマニアではない私は思う。
よって、「雪はなかった、お地蔵様は見ていた」説を採用したいところだ。
ただ、昔の人は街道を、女性でも一日平均32km、男性なら40kmを歩いて旅していたというほど、健脚だったらしい。
平地を40kmもすたすた歩ける人なら、雪道18㎞を大砲を担いで上り下りするくらい、楽勝なのだろうか?
そこは、マニアの皆さんの意見を待ちたいところである。

官道を探して

さて、現在に戻る。
川を渡った私たちは、迂回路を探して谷川に沿って西に進んだ。
揖斐川の歴史民俗資料館でもらった地図によると、それが正式なルートなのだそうだ。

対岸の尾根の末端に「乳くれ地蔵尊」がある。そこから上に踏み跡が続く。本来の官道は地蔵尊から少し上がったところから、左水平に進む。一度下り、再び杉の植林帯に登りなおすと、杉林の中に小さな如意輪観音がある。石の祠に囲まれているが、下部は杉の落ち葉や土に埋まっている。

上図左の説明文 書きおこし

道なき道を進み、如意輪観音の看板は見つけたが、それらしき祠が見つけられず、再度、お地蔵様まで引き返す。
この間約1時間。
地図を見てもおわかりのように、まったく登ってはいない。
なのに、私一人だけ、すでに峠を往復してきたように息が上がり、汗だくである。
これは、もしかして、たどり着けないかも……。
不安が、お気楽な私に憑りついて、揺さぶりをかけてくるのであった。

(恐ろしく長くなりそうなので、ここでいったんおしまいにし、続きは明日以降に書くことにします。お付き合いくださる方、すみません)

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**連続投稿143日目**


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