「自分ヲカンジョウニイレズニ」
同じ物語や詩でも、子どもの頃の印象とは、ずいぶん変わるものがある。
最近、「これって、もしかして、こういうことを言ってたのでは?」と見方がコロリと変わったのが、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」だ。
思春期の頃、私はこの詩を「自分を犠牲にしてでも、心から他人に尽くせるようになりたい」という気持ちを詠んだ詩なのだと思っていた。
「そうだよね、わたしも自己中で利己的な自分って嫌いだよ。こんな優しい人になれたら、自分のことを好きになれそうだよね。私もなりたいな」
と感情移入して読んでいた。
特に太字にしたこの部分
「アラユルコトヲ
自分ヲカンジョウニイレズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ」
には「利他の心」への強烈な憧れを感じたものだ。
優しくありたい、慈悲深くありたい。
自分のことは、後回しにしてでも、どんなに損をしてでも、目の前の困っている人を助けたい。
でも、そうはなれない。
だからこそ、こういう人に憧れる。
そんな詩なのだろうと思っていた。
しかし。
「アラユルコトヲ自分ヲカンジョウニイレズ」
とは、「自分はどうなっても、損得抜きで人様のために行動するんだ」というような単純な解釈ではないんじゃないか、とある日思った。
だって、それを突き詰めたら、死ぬしかなくなってしまう。
自分が生きるために必要なものまで、ホイホイと人様に差し出していたら、命がいくつあっても足りない。
そこで、これはきっと、私が「勘定」という言葉を間違えて解釈しているのだろうと考えてみた。
「勘定」の意味を辞書で調べると、こう書いてある。
賢治はてっきり上の、1.2.5 あたりの「金勘定」の意味で、使っているのだろうと、ずっと思いこんでいた。
けれど、それだとすぐ後ろの
「ヨクミキキシワカリ」
への繋がりがわからない。
「あらゆる金銭的利害関係に自分を絡めないように注意深く身を律し、その上で状況を正しく理解し」と読めないこともないけれど、大きな屋敷にも、豪華な食事にも興味を示さない、清貧を貫く賢治が、ここで利害関係なんていう生々しいものを持ち出すのはどう考えても変だ。
「金勘定」などというものは、最初から彼の頭の中には無い、と考えた方がつじつまが合うのではないか。
すると、ここでの勘定の意味は、
3の「他から受ける作用や、先々生じるかもしれない事態などを、あらかじめ見積もっておくこと」か、
4の「いろいろ考え合わせて出た結論」か
のどちらかになりそうじゃないか?
3だとどうなるか?
「あらゆることを、自分が関わることで起きるかもしれない影響を排除して考えたうえで、よく見聞きし、わかり……」
うーん。
意味はつながるけれど、それだと、賢治が人の相談に乗ったり、手伝ったりすること自体、できなくなってしまいそうだ。
むしろ賢治という人は、自分のスキルを提供することで解決できる課題があるなら、喜んで手助けする人だろう。
自分を勘定に入れずに、未来の見積もりなどしないだろう。
どちらかというと、自分の提供できるものを含めた上で、計画を立案しそうだ。
「支援」に限らず、人の暮らしは、互いに影響を受けあって成り立っているはず。
「自分の影響だけを徹底して排除する」なんてことを実現しようと思ったら、これまた、生きることをやめるしかなくなってしまう。
よって、3 の意味では使ってないと考えるのが、スジだろう。
だとすると、4 の「いろいろ考え合わせてでた結論」の意味で使ってるのだろうか。
実は、私はこれが正解だと思っている。
というか、それに気づいて、解釈がひっくり返ったため、このnoteを書こうと思ったのだ。
つまり、彼は『頭の中で考えて出てきた結論』という、超個人的なフィルターを通して、人の話を見聞きすることの危険を説いているのではないだろうか。
何でもフラットに聞け。
色眼鏡で見るな。
自分なりの解釈をしようとせず、ありのままをちゃんと受け止めろ、と。
実に科学的な態度だと思う。
それに、仏教に傾倒する賢治らしい解釈ではないか。
こういう読み方もできると気づいてから、詩の面白さが少しだけわかるようになった気がする。
作者は、ここに置く一言を選ぶために、どれだけ心を配り、しっくりくるものを見つけようと時間をかけたのだろう。
毎日書いているこのnoteでも、できるだけ自分の気持ちにピッタリくる言葉を選びたいと思っているけれど、それこそ、私のフィルターが選んできた、偏った言葉が並んでいるのだろうな。
『ジブンヲカンジョウニ入レ』ない態度を貫くのは、とんでもなく難しいことなのだと思う。
**連続投稿414日目**
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