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私の味

「私の味」といっても、私の作る料理の味のことではない。
私を食べたらどんな味がするのか、という話である。

それに気づいたのは、外で子どもたちと遊ぶことを仕事にしていた頃だ。
春先、一面のナノハナの中を歩きながら、ときどきナノハナをむしって食べる。
ほろ苦い春の味がする。

子どもたちも真似して口に入れるが、すぐに
「苦い」
と言ってべーっと吐き出す。
「これはおとなの味だからねえ」
と言いながら、散歩を楽しむ。
ナノハナと葉っぱは同じ味がする。

オオアラセイトウという、紫の花をつける大根の仲間がある。
この花も、春先に散歩しながらよく食べた。
ピリッと辛みのある大根のような味。
その花も、やはり葉っぱと同じ味がする。

たいていの野菜は、その花と同じ味がする。
何となく「花は甘い」ような先入観があるから、食べた時「えっ?」と思うのだけれど、花は甘くなんかない。全体同じ味がする。
つながっているから。

ある時、バターを自作した。
ビンの中に生乳を入れて、よく振る。
分離して白いかたまりとうす黄色い液体になる。
その白い方が乳脂肪分、バターだ。
塩で味をととのえる前にちょろりと舐めてみると、見事に牛の味がした。
正確にいうと、牛肉の脂身とおなじ味だった。
おなじけものの、おなじあぶらのあじがした。
牛の乳は、牛の肉と同じ味だった。

と、いうことは。
私が子どもに与えていた母乳。
これもきっと、私と同じ味がしていたに違いない。
どんな味なんだろう。
私は美味しかったのだろうか。
とても気になる。
けれど、その味を知っているのは、世の中にたったふたりで、
そしてふたりとも、もう味なんて覚えていない。

子どもがお腹にいた頃は、私が食べたものや、私の体に蓄えられていたもので、この子たちが作られているのだという実感があった。
一体だった。
お腹から出てからは、私とは別の人になってしまったと思っていたけれど、本当は変わらず私でできていた。
私を食べて大きくなっていた。

私を与えたふたり。
私の味を知るふたり。

竜巻のような、濁流のような、荒波のような、
あらゆる激しいものを詰め込んだこの感情は、
ただ、あなたたちだけに向けられる。
私を食べて大きくなったのだから、
私より先に死んではいけない。

私にとっての母性とは、この感情のことである。

**連続投稿17日目**

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