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偶然が起きにくい表現

高校時代の3年間、写真部に在籍していた割に、全く写真が上手くない。
技術的なことは全くわからないし、カメラにもレンズにも詳しくない。

ただ、経験的に「たくさん撮れば、中には気にいるものが1枚くらいある」ということは知っている。
気になるものを見つけたら、いろんな角度から、近づいたり遠ざかったり、ズームにしたり広角にしたり、試し撮りする。
後から見返すと、「これは好きだな」と思うものが1枚は必ずある。
100枚撮れば1枚くらいは、偶然面白いものが撮れているものなのだ。

これは、単なるカメラとレンズの力で、本人の力量は関係ない。
これを自分の表現だと思うと、間違える。
たまーに起きるラッキーでしかないのだ。
この「偶然のラッキー」を「必然」にする訓練を積んでいる人たちが、プロのカメラマンなのだろう。

文章は、偶然のラッキーが起きない表現だ。

もしかすると、短歌や俳句などには、ビギナーズラックが存在するのかもしれないが、ある程度の長さの文章には、書き手の性能がどうしたって滲み出る。

「もっとこう書けば、わかりやすいのに」
「前後を入れ替えたら、衝撃が伝わるのに」
「感覚的過ぎて、読むのがしんどい」
などと読み手に思わせてしまう文章は、書き手の性能不足を表している。

偶然に左右されない分、努力が報われやすく、成長が見えやすい。
そこが面白いと思って、書くことを選んだはずなのに、自分の文章については、上手い下手がわからない。
たぶん、写真と違って数を打てないから、その場での相対化や客観視ができないのだろう。
書いたことを忘れた頃に読めば、良し悪しがわかるので、自分の思い入れが客観視の邪魔をしているということだ。

自分がなければ文章なんて書けないのに、自分があるとその良し悪しがわからなくなる。

文章を商品にするって、本当に難しい。

**連続投稿720日目**

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