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自分で考えたい、自分で決めたい気持ちのこと

普段接しているのは、未就園の子どもたち。
2,3歳を中心に、今年は4歳児も多かった。

子育て経験のある方ならわかると思うのだけれど、子どもはある時期「質問魔」になる。

どうして空は青いの?から始まって、
どうしてパパは仕事に行くのにママは家にいるの?
どうして男の子にはおちんちんが生えてるの?などなど、それはそれはいろんな質問がやってくる。

今日は、主催するちびっこ探検隊で、多摩動物公園に行った。
天気が怪しかったので、昆虫館なら屋根もあるし安心だと思ったのだ。

昆虫館に行くと、私は必ずやることがある。
弱っている蝶を見つけて指にとまらせることだ。

館内には蝶を捕まえないでくださいと書いてあるので、羽を捕むことはしない。
そっとひとさし指を蝶の顔の前に出す。

飛び立つ力も残ってない蝶は、出された指にしがみつく。
そして、写真のように間近で観察しても逃げない。

今日も私は二人の女の子と、弱った蝶を探して歩いていた。
彼女たちは、元気な蝶と弱った蝶の見分けがつかないでいたので、最初は、指を出してすべての蝶に逃げられていた。

そのうち、私が一匹の弱った蝶を見つけて指にのせることに成功したので、彼女たちにも順番に指先に止まらせていた。

そのうち、一人の女の子が訊いた。
「どうして、この蝶は、ほかの蝶みたいに逃げないの?」
「もう弱ってるからだよ。」
「弱ってるってなに?」
「もうすぐ、死んじゃうってこと」
「どうして、もうすぐ死んじゃうの?」
「チョウチョも、生まれてからだんだん年を取って、おじいちゃんやおばあちゃんになったら飛べなくなって、死んじゃうんだよ。」
「ふーん。」

彼女たちは、一昨年、私の父が亡くなった時、その話を、お母さんたちから聞いていたようで、

実家から戻った私に
「ぢーこのお父さん、死んじゃったの?」
と、とても悲しそうな顔で聞いてくれたのだった。

あのころは、まだ3歳になったばかりの子が多かったので、人が死んでしまうという事についてはよくわかってなかったと思うのだけれど、

それでも「お父さんが死んだ」「お父さんにもう会えない」というところに、自分たちなりの痛みを感じたようで、会うたびに、「ほんとうにかわいそうに」という表情で、父のことを聞かれた。

私は
「うん、そうだよ。ぢーこのお父さんは死んじゃったの」
と答えるたびに、少しずつ癒されていくような気がしていた。
無垢な共感は本当にありがたい。

話し戻って、昆虫館での続き。

そんなわけで、彼女たちは、生き物が死んでしまうことについてはなんとなく理解している。
だから、「死ぬってなに?」とは聞かれない。

もう動かなくなる。もう会えなくなる。そんな風に理解している。

が、生きているものがどうして死んでしまうのか、そこがまだわからない。

野外にいて、アリを踏み潰してみたり、バッタを強くつかみすぎてお腹から汁が出て死んでしまったり、というのは経験しているので、[殺すと死ぬ]ことはわかっている。

けれど、何もしていないのに、どうして死んでしまうのかが分からない。
なので質問する。
困らせたいわけではなく、知りたいから。
知って、自分で考えたいから。

今日、チョウチョが弱っている、もうすぐ死んでしまう、という事を理解した彼女たちは、死んでしまう前に、ご飯を食べさせてあげたいと、園内に設置されている蝶のエサ台に蝶を移そうとしていた。

誰かに言われたわけではなく、自分の意思で。

私たちは、子どもが言葉を話し出すと、つい、雑に接してしまう。
生まれて、まだたった数年しかたってないのに、
ついこの間まで赤ちゃんだったのに、
『言葉を操っている』というだけで、自分たちと同じくらいいろんなことを理解している存在として扱ってしまう。

もちろん、言葉以外から受け取っている物もたくさんあるので、「大人と同じようにいろんなことを感じる存在なのだ」と思う事は間違ってない。
けれど、子どもたちは、自分の頭で考えるためには、圧倒的に情報が少ない人たちなのだという事を忘れないほうがいい。
そして、自分たちで考え、判断したがっているということも。

子どもたちが質問魔になる時。
それはきっと、周りの大人のように、いろんなことを自分で考えて判断したいと思っているとき。
大人の言うことに無条件に従うだけの存在でいたくないと主張始めたときなんじゃないかと思う。

弱った蝶を見て「死ぬ前に、ご飯を食べさせてあげたい」と思ったあの子たちのように。

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はんだあゆみ
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