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ホットケーキよもやま話

ホットケーキは、飽きる。

フカフカの生地を切り分け、生クリームをたっぷりとつけ、甘いシロップに浸しながら頬張ったその瞬間は確かに幸福なのだが、5分もしないうちに飽きる。積み重なったホットケーキの視覚的なインパクトは郷愁を呼び覚まし、絵本の世界に迷い込んだかのように人を一瞬でメルヘンな存在へと変えるが、それも一枚目を平らげるまでの話である。飽きずに食べられるのはどんなに頑張っても一枚目がせいぜいで、二枚目、三枚目になると、パサつきが地平線のように果てしなく広がっていき、暴力的な甘さが水分を駆逐しながら口の中で内乱を起こす。一口目の幸福感はどこへやら。一転してそれは苦行の様相を呈し、ナイフとフォークを置く頃にはホットケーキとの離縁を決意している。だが困ったことに、3日もするとまた寄りを戻したくなるのだ。

料理は作れてもお菓子が作れない人間にとって、ホットケーキはフレンチトーストと並んでお手軽に作れるデザートの代表格の一つである。粉ふるいや湯煎などという面倒くさい工程を必要とせずに、ただ焼いてシロップをぶっかけるだけで完成する。日持ちのするホットケーキミックスと、新鮮なミルクと、卵と、メイプルシロップさえあれば、他に特別なものは何もいらない。添えるにしてもフルーツ缶詰が関の山で、それもあればの話である。生クリームまでいくともはやそれは酔狂の域で、泡立てる手間を考えれば、そこまでするぐらいなら喫茶店に食べに行った方が早いだろう。常備できるもので安く作れるという点では、パスタに近い位置付けである。気泡が出ないように焼くにはコツがいるが、テフロン加工のフライパンを使い、濡れ布巾できっちり冷ませばさほど難しくなく、焼き目が焦げ茶色の真円となって焼けた時は嬉しいものである。綺麗な焼き目に対するハードルも実はそこまで高くはない。成功へのハードルの低さや得られる達成感は、卵焼きに近いものがあるかもしれない。

大学の時に先輩が焼いてくれた、水多めの薄く焼いたホットケーキは、雑ではあったものの、いっぱしのホットケーキの形をしていた。焼き目が斑らでも、バターの香りが漂えばそれでもう十分である。そこに、これまた別の先輩が海外土産で持ってきた大学生の貧乏舌にはもったいない値段のカナダ産のメイプルシロップをかけ、スカスカのホットケーキを食ったわけだが、あれは学生時代に食べたものの中で一、二を争うぐらいに美味だった。作り方にこだわり抜いた料理よりも、こういう適当に作ったものの方がなぜか強く印象に残ってしまう。大学生の思い出補正とは恐ろしいものだ。

話を戻そう。

飽きるくせに妙な中毒性があり、加えて手軽に作れるとあっては、接し方を変えるしかない。情熱が倦怠へと変わったならば、脱するために創意工夫の時間がやってくる。ホットケーキはそれ単体で完成された食べ物であり、下手に変えるとそれはもうホットケーキではない。変化をつけるには付け合わせしかないだろう。

個人的に好きなのはウインナーである。また半熟の目玉焼きも悪くない。ここまでいけばスイーツではなくハワイの朝ごはんである。でもあの際限のない甘さに対抗するためには塩気がどうしても必要であり、事実、軽くボイルしたウインナーをケチャップとともに添えれば、時折それを齧るだけで、あの怠惰な甘さは緩和される。甘さとしょっぱさの繰り返しは人を一瞬で家畜へと変える恐怖のデブスパイラルであり、これに手を出したが最後、そのメニューがなくなるまで止まらない。ウインナーがなければ塩気が強めのカリカリベーコンでも構わない。皿に垂れたシロップが浸ったベーコンを齧るだけで、来世はアメリカ人に生まれたいと思ってしまう。

最近は炊飯器でホットケーキを焼くのにハマっている。内釜をそのままボウルとして使えるため、洗い物が少なくて済むからだ。焼き上がりの脅威的な丸さは「ぐりとぐら」のカステラを彷彿とさせる。あのカステラに憧れた人は多いのではないだろうか。内釜に薄く油を塗り、ホットケーキミックスと卵と牛乳を分量通りに入れて混ぜ、炊飯するだけでその夢は簡単に叶う。焼きあがったら周囲をぐるりと竹串で刺して生地を剥がし、内釜を逆さにして皿に落とすだけで、まんまるホットケーキのできあがりだ。

休日の朝にはホットケーキを焼こう。バターを滑らし、シロップをドバドバかけて、甘いバニラエッセンスの香りを嗅ぎながら生地にかぶりつく。たとえ離れてもまた付き合いたくなる。人生はそんなもので、それが幸せなのだろうね。

#ホットケーキ #エッセイ

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