人間失格感想

どうもマダカンです。
太宰治の『人間失格』について語りたいと思います。

これを初めて読んだのは高校生くらいの頃で、その時は現代人にも通ずる価値観などと言われていたので読んでみたのですが、なんだかあんまりわかりませんでした。

というのも恐らく私は自己主張が比較的出来るタイプの人間なので、周りの人間のご機嫌取りばかりして自己主張の乏しい主人公に全然共感が出来なかったのでした。

途中の「世間は個人」という価値観はイイねと思ったけど、それ以外では主人公が何をしたいのかさっぱりわからず、内容も大体忘れて今に至ります。

というわけで今まで完全に『人間失格』のアンチとして生きてきたのですが、いっそのことアンチ視点で事細かに『人間失格』をボロクソに叩いてやろうなどとよこしまな考えで再読したところ、意外と面白いということがわかりました。

でも面白いことには面白いんだけど、やっぱり主人公が何がしたいのかが全く見えてきませんでした。

というのもこの主人公の葉蔵主体性に欠ける人間として描かれており、主体性がないが故に周りに翻弄され苦しみ続けるという理解しにくい地獄に陥っているキャラクターだからです。

主体性のある人間から見ると「そこは断ればいいじゃん?」とか「そこは少しわがままと思われても意見を言えばいいじゃん?」という場面で主人公が相手に従ってしまう(しかも自分はあんまり納得していない)ので、「なぜそうなるの?」という展開ばかりで理解できません。

でもそのキャラクターとその苦悩を描き切っているという点ではすごく面白いと思いました。

あと、この話を最初に読んだ時は「太宰治の半自叙伝」みたいな評判を聞いていたので『人間失格』の主人公=太宰治という図式で捉えていましたが、多分違うなと思って読んだら読みやすくなりました。

太宰治のような小説家(オタク気質)キャラだと思うと言動が意味不明に感じるのですが、よく読むと主人公はかなりの美男子接待上手ということがわかるので、「これはオタクじゃなくてイケメンホストの話だな」と途中で気づき、イケメンホストが如何にしてヒモ生活を送ることになり、その後狂人扱いを受けることになったのかみたいな話ということがわかってきました。

オタクに人気がある小説という印象が強い本作ですが、もしかしたらイケメンホストの方が共感できる話なのかも……と思いました。

以下、事細かに感想を語っていきたいと思います。




はしがき

まず最初に「」という謎の人物が三枚の写真を見るシーンから始まります。

恐らく主人公葉蔵の写真で、幼少期から作り笑いをして人間味の無いキャラクターであったことが語られます。

葉蔵の幼少期の写真の印象は、恐らく『名探偵コナン』のコナンが子供として装っている時の何とも言えないあざとさや不快感に通ずるものなんだろうなと想像しました。

(ファンには申し訳ないが私はコナンが子供のフリをしているシーンにかなり嫌悪感を感じるタイプです)

葉蔵が成長し、学生となった写真はかなりの美男子になったことが伺え、しかも作りものみたいな微笑を讃えていることがわかります。

恐らく女性向け漫画等に出てくるイケメンみたいな雰囲気なんだろうなと想像しました。

(申し訳ないが女性向け漫画に登場するイケメンは裏表があり何やら色々をひた隠すのを美徳としている節があるという偏見を持っています)

ただ女性向け漫画の裏表あるイケメンは大抵どえらい自信家なので、葉蔵はそういう自信から生まれた裏表ではなく逆に自信がない故に作りものの微笑をするタイプのイケメンキャラと解釈しました。

最終的に葉蔵は特徴の無い印象の薄い人間となったらしいことがわかったところではしがきが終わります。

主人公の葉蔵が必死に作り笑いをして人間に溶け込もうとしたのに、最終的に顔も思い出せないような誰の印象にも残らない人間になったらしいことが語られ、ここから如何にしてこんな人間になったのかが語られていきます。



第一の手記

恥の多い生涯を送ってきました。
という有名な一文で始まるこの章では、主人公葉蔵の幼少期が語られます。

汽車というものを知らず、道の複雑な構造に実利的な意図があることを知って興が冷めたり、地下鉄や、枕や布団のカバーが実用的なものだと知って暗然としたりすることが語られるシーンは、最初「なんでそんなことをわざわざ書き連ねるんだ?」と思っていました。

恐らくここは人間の意図(裏表)が日常のあらゆるところに存在していて、その人間社会に知らぬ間に飲み込まれている的なことを書きたかったのでは?と解釈しました。
 
たぶん主人公は「何の気なし」という状況を知らずに育ち、人間の裏表、本音と建前みたいなものの渦中に育ったのだろうと思います。

というのも主人公は金持ちのお坊ちゃんで、家族が十人もいて自分は末っ子で女中や下男もいて父親は政治に関わるような大人物で…という、いかにもな貴族社会に生まれてしまったらしいのです。

空腹を知らずに育ったというシーンでも、周りが「おなかが空いたろう」「珍しいものだから」と勧めるからそれに応えているだけみたいなことが語られ、「食べたいから食べる」のではなく「食べろという強迫観念に似たものを受け取ってしまっているから仕方なく食べている」状況というのがわかります。

たぶんこの家族は「いらなーい」「別にお腹すいてない」とか言うと「なんて贅沢なことを言うんだい」とか「そんなことでは生きていけないぞ」的なことを言って責め立てるタイプの人間なんだろうと想像します。

そうじゃなければ葉蔵がこんな子に育つ理由がわからないので、そう解釈します。

そういう世界で生きてきたため、「おなかが空いたろう」という一見相手を気遣う優しさも「食え(俺に従え)」という脅迫に聞こえる(あるいはそういう意味を孕ませるような家庭だった)ような子に育ってしまい、周りの環境にもさまざまな人間の意図(実用性)が存在することに絶望したのでは…と思いました。

そうやって自分の気持ちはお構いなしに相手の要望に従い続ける日々を送っていたのにも関わらず、客観的には葉蔵はかなり自由(飯に困らないし、葉蔵自身も相手の期待に応えるように無邪気な子供を演じてしまうため)に見えるというギャップが生じてしまい、幼少期から人知れず苦悩することになったことが語られます。

そのうち葉蔵は道化を演じるようになり、周りの人間たちから受け入れられるようになります。

「怒られたくない」という一心でよい子あるいはダメな子を演じ、それが受け入れられることでますます自分の本音が出せなくなり…という悪循環に陥っていきます。

つまり子供の頃から家族に対して接待をしてしまっている状態だと解釈しました。

接待と親切の区別が付かない内に接待術を学んでしまい、そこばかりが上達してしまうという悲しいことになっています。
かわいそう。

主人公の接待エピソードで印象的なのが父親からお土産のリクエストを尋ねられたシーンです。

父親は子供に「お土産は何が欲しい?」と尋ねるのですが、父親の中では既に「子供にあげたいもの」が決まっていて、その期待から外れると不機嫌になるというかなり面倒くさいダメ親な面を
見せます。

主体性のある子供なら「お土産べつに欲しくないよ」とか「◯◯が欲しいよ」とか「子供っぽいおもちゃなんていらないよ」と断れると思うのですが、葉蔵にはそんなことはできず、父親の期待に応えて欲しくもない獅子舞を要求し喜ばせてしまいます

ここの父親への接待シーンで葉蔵は悪い方向に成功体験を得てしまったことがわかります。

本当は父親が子供の機嫌を取るべきなのに、子供が父親の機嫌を取ってしまっているし、父親はそのことに気づかず喜んでしまう、という図がかなりグロテスクだなと感じました。

そして葉蔵は学校でも周りの期待に応えて(あるいは期待から免れるために)道化(バカキャラ)を演じます。

「周りの目なんて気にせず勉強に励めよ」と言いたくなりますが、この頃の日本は陰湿さや人との距離感の近さが現代より100倍酷いのかも…と思うので、そういう世渡り術が必要だったのかもな…とも思います。

さらにここで葉蔵がこの頃から性被害を受けていたことが明かされます。

この頃の日本では男児の性被害なんてろくに相手にされないでしょうから、葉蔵の「誰にも言えなかった」という選択も仕方がないのかも…と思いました。

ただ、葉蔵が主体性が無い故に性被害に遭ったのか、性被害に遭ったから主体性が無いのかがわからないな…とも思います。

つまり、自分が下男下女たちの憎むべきあの犯罪をさえ、誰にでも訴えなかったのは、人間への不信からではなく、また勿論クリスト主義のためでもなく、人間が、葉蔵という自分に対して信用の殻を固く閉じていたからだったと思います。

太宰治『人間失格』新潮文庫p25

貴族社会のよそよそしい世界の悪い影響を真っ向に受けてしまった子だった、ということでしょうか。

こういう幼少期を送った葉蔵は謎の魅力を持つようになり、後にモテた、ということが語られてこの章は終わります。



第二の手記

中学生になった葉蔵は、ここでも道化を演じたことで人気キャラとなりました。

うまく周りを騙せていることで自分の安寧を保っていた葉蔵でしたが、竹一というブサ男に道化を演じていることを見破られ、葉蔵は「背後から突き刺され」る思いをします。

見破られたところで別に誰も気にしないだろ」としか思えませんが、葉蔵のような人との関わり方がわからない子にとって唯一の人と関わる手段が断たれることは何にも代え難い苦痛らしい。

個人的には「関われなくてもいいんじゃね」と思うのですが、まあそう思えないのが葉蔵なのでしょう。

しかし葉蔵の思考回路で特にキモいなと思ったシーンは以下です。

自分は、これまでの生涯に於いて、人に殺されたいと願望した事は幾度となくありましたが、人を殺したいと思った事は、いちどもありませんでした。それは、おそるべき相手に、かえって幸福を与えるだけの事だと考えていたからです。

太宰治『人間失格』新潮文庫p29〜30

なんかよくわからないけど「人に死を与える事=幸福」だと思っているのが殺したくなるほどキモいと思いました。

まあものすごい難病で鬱になっている状態のひとにとってはそうかもしれませんが、健康体の私から見ると「何言ってんだお前」としか思えませんでした。

竹一を異常なまでに敵視した葉蔵は、逆に竹一に物凄く「優しく」して、膝枕までします。

人との接し方(あるいは自己主張の仕方?)はわからないのに「とりあえずこうしとけば人は喜ぶ」というのはわかるというのが、葉蔵の精神構造をグロくさせているよな、と思いました。

竹一に膝枕までした葉蔵は「お前は、きっと、女に惚れられるよ」という予言を受けます。

これは別に竹一が言ったからそうなったというより、自分の気持ちを押し殺して相手の期待に応えたり、さして好きでもない相手に膝枕をしてあげるような男だからそんな奴は誰がどう見てもモテるよと思うのですが、葉蔵はそこの自覚が無かったらしく、ここでやっと自分はモテる方ということに気が付きます。

そののち葉蔵から見た女性像の不可解さが語られ、そして葉蔵に如何にホストの才能があるかが明らかとなります。

葉蔵が現代に生まれていたらナンバーワンホストとして輝く未来もあったかもわかりませんが、残念なことにこの時代にはそういう職が無かったせいで葉蔵は才能を利益にすることができず、ただ疲れ果てるだけの人生となってしまいます。

また、竹一からは「お前は偉い絵画きになる」という予言も受けます。

この時に描いた葉蔵の陰惨な自画像は、葉蔵自身を包み隠さず表現されたものと捉えられますが、葉蔵はそれを竹一以外には見せる事なくしまいこんでしまいます。

葉蔵曰く、「これを自分の正体とも気づかず、やっぱり新趣向のお道化と見なされ、大笑いの種にさられるかも知れぬという懸念もあり、それは何よりもつらい事」だったらしい。

私にはもう全部気にすんなとしか思えないのでついていけないのですが、まあ半分くらい気持ちはわかる。



堀木登場〜

竹一とは中学で別れ、高等学校に入ってから堀木という新しい友達?ができます。

堀木からは煙草淫売婦質屋左翼思想を知らされるのですが、この堀木がいかにもなチャラ男で、そんな奴と付き合うなよとしか思えないのですが、葉蔵は人間関係下手くそ侍だったせいでこの堀木と付き合うようになり、身も心も壊していきます。

堀木に会うまで葉蔵は1人で会計もできないような世間知らず(というか箱入り息子?)だったのですが、反対に堀木は世間慣れしており世渡り上手でした。

そうして葉蔵は酒と煙草と淫売婦という不健康トップ3に入り浸るようになってしまい、特に淫売婦の元に通いまくった結果自然と色気を纏ってしまい、かなりモテるようになったことが語られます。

その後、葉蔵は共産主義の読書会という謎のカルト集団に居心地の良さを覚え、「日陰者」に同族意識を寄せていきます。

やっぱりアルコール依存症になってしまったとか、ヘビースモーカーだとか、ギャンブル依存症だとか、うまくやろうとしてうまくいかなくて日常生活のバランスを崩してしまって後ろ指差されやすい人達の方が人間らしいと感じる…みたいなことでしょう。

また、「犯人意識」という言葉が登場しますが、恐らくこれは現代で言うところの「罪悪感」なんじゃないかと思います。

何も悪い事をしていないのに悪いことをしているように感じる。
現代でも問題となっている意識だと思うので、この点は現代人にも理解できる感覚だな〜と思います。

カルト集団に居心地の良さを覚えていた葉蔵でしたが、その会の活動も忙しくなってくると嫌気が差していきます。

ここでその時葉蔵と親しくしていた三人の女について語られるのですが、葉蔵がとんでもない女たらしというか、如何に好きでもない女のご機嫌取りに長けているのかがわかります。

というかなぜ好きでもない女のご機嫌を取ろうとするのか、怒らせても別にいいじゃんそんな奴と思うのですが…。

この三人の内の一人のツネ子が堀木というチャラ男にも相手にされないような貧乏くさい女だったのですが、その貧乏くささが逆に愛おしく感じ、しかも金も無くなった葉蔵は彼女と一緒に入水自殺を試みます。

しかしツネ子だけが死に、葉蔵だけが生き残り、自殺幇助罪に問われてしまうのでした。

その後、葉蔵はヒラメという人物に出会い、取り調べを受けている時にも病弱を装いますが、検事に「(その咳は)ほんとうかい?」と演技を見破られ、その様子を「物静かな侮蔑」と受け取ります。

逆ギレ?



第三の手記

それから葉蔵はヒラメの家に居候することになりましたが、それは決して居心地の良いところではありませんでした。

ヒラメは「どうするつもりなんです、いったい、これから。」と葉蔵に問います。

主体性に欠ける葉蔵には「どうする」という質問は答えられるものではなく、できればヒラメから「学校へ行きなさい」と命令された方がかなりラクなタイプでした。

しかしヒラメは相手の主体性を尊重するタイプだったのかは知らないが「学校へ行け」とは言わず、そのために話がこじれ、これからの展望も無い葉蔵の恨みを買うことになってしまいました。

「どうする」と聞かれた葉蔵は「画家になる」という夢をここで初めて(竹一以外に)口に出します。

しかしヒラメは別に葉蔵の将来の夢を聞いていたわけではなかったうえ、堅実的でない「画家」という言葉を聞いて「へええ?」としか言えませんでした。

ヒラメ的には「学校に戻りたい」的な言葉を聞きたかったのでしょうが、「あなたの気持ちは?」という回りくどい質問をしてしまったゆえの事故でした。

でも自殺未遂した相手に「これからどうするの?」と聞いて「画家になります」と返ってきたらヒラメみたいな反応になるのもわかります。

ただ葉蔵的には「「これからどうするの?」と聞かれたから自分の考えを言っただけなのになんでそんな反応されなきゃいけないんだじゃあ聞くなこのバカ」と思っているのだろうな…というのもわかるので、なんとも言えない。

なんというか自殺未遂するような奴にまともな回答を期待するのもおかしいと思うし、「そこは持ち前の道化精神で取り繕えよ」というところで取り繕えない葉蔵も哀れだし、救いようが無いな…と思いました。

ここで葉蔵は居た堪れなくなって堀木に救いを求めます。
葉蔵は本気で堀木をアテにしていたわけではなかったのですが、もう頼れる人間が堀木くらいしか思いつかない状態だったので堀木を訪ねたのでした。

堀木はそれまでチャラ男の遊び人という印象だったのですが、なんとここで「チャラ男と見せかけて結構ちゃっかり地に足ついた生活をしてるタイプの男」ということが明らかとなります。

まあ「おれ全然勉強してないよ」とか言いながらちゃんと勉強してるタイプの人間だったということです。

主人公は「おれも勉強してないわ」と言ってガチで勉強してないタイプだったため、とんでもない裏切りを感じてショックを受けるのでした。

堀木は遊び人だけど「ほどほどでやめる」ことが出来るタイプのイケメン遊び人で、葉蔵はそういう加減も知らずに遊びのやめ方がわからなくなって人生詰んだタイプのイケメンホストでした。

するとここでシヅ子というシングルマザーと出会い、葉蔵はシヅ子のヒモとなります。

葉蔵は画家になるという夢をヒラメに打ち明けるも、しがない漫画家にしかなれませんでした。

個人的には「漫画家なんてすげーじゃん」と思うのですが、まあこの時代の漫画家の扱いなんてかなり酷いものでしょうから、葉蔵的には屈辱以外の何者でも無かったんだろうと思います。

こうして漫画家にしかなれない葉蔵は承認欲求も拗らせていきます

「ぼくは本当はもっと絵が上手いんだ」みたいなことを言っても冗談としか捉えられず、「いや…自分だって本気を出せば…」と燻り続けるタイプのダメ男となります。

……あなたを見ると、たいていの女のひとは、何かしてあげたくて、たまらなくなる。……いつもおどおどしていて、それでいて、滑稽家なんだもの。……時たま、ひとりで、ひどく沈んでいるけれども、そのさまが、いっそう女のひとの心を、かゆがらせる。

太宰治『人間失格』新潮文庫p96

葉蔵はシヅ子にそう言われても、ヒモになりたくてなっているわけでもモテたくてモテているわけでもない葉蔵には嬉しくない言葉でした。

葉蔵は自立した生活を送りたかったのですが、そうすると余計にシヅ子を頼ることになり、最終的には実家とは絶縁し、シヅ子と同棲することになりました。

しかもこれは周りから見ると「シヅ子さんと同棲出来るようになってよかったね」という評価になるというのがグロテスクだなと思いました。

男性ということもあり、この時代では「女性に世話になっておきながら放っておくとは何事だ」という事になるのでしょう。

世間の風潮に逆らって自己主張をするなんて出来ない葉蔵はどんどんドツボにハマっていきます。

それでもシヅ子の娘、シゲ子だけが葉蔵の唯一の救いでした。

シゲ子は葉蔵のことを「何もこだわらずに」「お父ちゃん」と呼んでいました。

葉蔵は恐らく「自分の本当のお父ちゃんとそれ以外の男の人の区別がついてない幼い子」くらいに思っていたのではと推測します。

しかしシゲ子に「シゲちゃんは、いったい、神様に何をおねだりしたいの?」と聞くと
シゲ子はね、シゲ子の本当のお父ちゃんがほしいの
と語ります。

シゲ子は葉蔵が本当のお父ちゃんでない子はわかりきっていたのです。
その上で葉蔵を「何もこだわらずに」「お父ちゃん」と呼んでいたのでした。

あるいは葉蔵に「本当のお父ちゃんになってあげる」と暗に言わせたかったのか、「お前は余所者だよ」と言いたかったのか、真意はわかりません。

とりあえず葉蔵のような分別の無い人間ではなく、シゲ子はちゃんと分別のある人間だったということが明らかとなり、葉蔵はそれからシゲ子の顔色もうかがうようになってしまったのでした。

堀木は葉蔵に頼まれてもいないのに色々世話をしたことで先輩面をするようになり、葉蔵に説教をするようになりました。

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

太宰治『人間失格』新潮文庫p100

堀木にそう言われ、葉蔵はここで「世間=個人では?」と真理を悟ります。

ここから「世間」という得体の知れないものの恐怖から解放され、葉蔵は主体性を獲得します。

周りからは少しわがままに見え、へんにケチに見え、あんまり可愛がってくれない人間という評価になりましたが、自我を手に入れる事に成功しました。

しかし飲酒量は増え、シヅ子とシゲ子のもとを離れ、今度はスタンド・バアで暮らすようになります。

しかし、おそろしい筈の「世間」は、自分に何の危害も加えませんでしたし、また自分も「世間」に対して何の弁明もしませんでした。マダムが、その気だったら、それですべてがいいのでした。

太宰治『人間失格』新潮文庫p106

「世間」に怯えていた主人公は主体性を獲得してから「自分は今まで科学の迷信のようなものに怯えていただけだったんだ」と悟ります。

見事に主体性を得た主人公は、ヨシ子という無垢な処女と出会い、ついには結婚までしてしまいました。



しかし、主人公の人生はこれでめでたしめでたしとはいかず、堀木と謎の言葉遊びをしている間になんと妻のヨシ子が犯されてしまいました

主人公の葉蔵はどうすることもできず、その場から逃げ出します

堀木も気まずくなってその場を去りましたが、主人公の恨みの矛先は妻を犯した男ではなく、妻が犯されていることを知らせに来た堀木に向けられました。

なんで???????

ここの主人公の心情が理解できないのですが、実際同じ立場になったらそうなるのかもわかりません。

ヨシ子が汚されたという事よりも、ヨシ子の信頼が汚されたという事が、自分にとってそののち永く、生きておられないほどの苦悩の種になりました。

太宰治『人間失格』新潮文庫p130


ここもよくわからないのですが、ヨシ子は性被害に遭ってからおどおどするようになってしまいます。

主人公も幼い頃に性被害に遭い、おどおどするようになってしまったので、自分が犯される前の状態だったヨシ子が同じ経験をして同じような態度になってしまったことに絶望を感じたのか、よくわかりません。

とりあえず自分の唯一の心の拠り所がぶち壊されたらしいことはわかりました。

葉蔵はそれから酒に溺れ、次第に「ヨシ子は本当はあの男と一度だけでは無かったのでは?堀木とも?」と疑心暗鬼に陥ります。

どんどん狂っていく葉蔵は睡眠薬の薬物過剰摂取で自殺未遂を起こし、気づけばヒラメとバアのマダムがいました。

主人公はますますボロボロになり、薬物中毒にもなり、薬局の奥さんとも不倫したりどんどんつらくなって、父親に(女性関係以外)一切を打ち明けた長い手紙を書いても返事が来ず、最終的にヒラメと堀木の助けで精神病院に入れられました

主人公は狂人ということになり、しかし狂人という自覚はなく常にその場を精一杯生きていただけで、人間失格となってしまったのでした。

その後父が死に、「全ては父のせいでは?」と思うようになります。

この辺は父親という存在からプレッシャーを受け続けていた人なら共感できるのかもわかりませんが、いかんせん作中で「父親の存在の大きさ」についての描写が乏しいため、あんまり共感できませんでした。

しかし、やはり序盤の父親に接待をしてしまったことが主人公を狂わせた大きな要因になったのでは?とも思います。

最後は老女に犯され「今年で27だけど老けて見えるので40歳と間違われます。」と語られて終わり。



あとがき

最後に再び「私」が登場し、バアのマダムと会話します。

「あの人のお父さんが悪いのですよ。」

太宰治『人間失格』新潮文庫p155

「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」

太宰治『人間失格』新潮文庫p155

ここでも「父親が悪かった」ことになり、主人公は「神様みたいないい子だった」という評価になっています。

この時代の家父長制について批判したいのだかよくわからないが、やはり父親についての描写が足りないのでよくわからない。

父親はどんな人物だったのか?
そこを描いてくれよ!
と思いました。

また、最後に「神様みたいないい子」と評された主人公は、客観的に見た姿が真実なのか、それとも主人公の主観的評価が真実なのか、よくわからないな…と思いました。



全体感想

主体性の無い主人公がそれでも他者に「人間」に見えるように振る舞った結果、関わる人間全員に接待をすることになり、疲弊しまくってヒモになるもそれもまた苦痛で、最終的に狂人というレッテルを貼られるという話だったんだなと思いました。

個人的にはやはり序盤で父親に接待してしまった主人公がもう意味不明で、自分だったらそんなことは絶対に出来ないし「オメーのあげたいものを押し付けんじゃねえよ」と言って殴る以外の選択肢が思い浮かばない。

そのため主人公のことは最後まで理解できませんでした。

幼少期から自分を押し殺して接待し続けたのに、その接待やお道化が客観的に見ると「自由な振る舞い」に見えるために「あいつは幸せ者だな」と言われる羽目になる。

でも本人にとってはこれ以上無いくらい不幸で不自由で「自分にも自分にしかわからない苦悩があるわい」と思う、のにそれを主張できないというジレンマ……。

主人公から主体性を奪った要因は一体どこにあったのかが全然わからないため、最初から最後まで救いようが無いなと思いました。

しかもなまじ顔が良い上に接待が上手いため、女に言い寄られそれを断ることも出来ず好きでもないやりたくもないことをやらされ全く自分の思い通りに人生を動かせず、でもそれはお前が自己主張をしないで相手の言いなりになっているせいです………という負の無限ループ。

なぜ主人公は意見が言えないのか?
「うるせえ」くらい言えなかったのか?
不思議でならない。

途中で「世間=個人」説に出会ってから主体性を獲得する流れは感動しました。

「世間って得体の知れない巨大な存在だと思ってたけど、よくよく考えたら超ちっぽけじゃん!」という悟りを得て、少しずつ自己主張が出来るようになり、周りからの評価は下がったけど自分の気持ちは良くなった(たぶん)というのがよかった。

でもそれも内縁の妻が犯されて病んでしまい全て破壊されたのが悲しかったです。

無垢な信頼性によって救われたのに、無垢な信頼性によって邪悪を引き寄せ、何もかもぐしゃぐしゃにされたのがつらい。

それにしてもなぜ主人公は異性にばかり頼り、同性に救いを求めなかったのか?

誰か一人でも友達はできなかったのか?
堀木以外に付き合いは無かったのか?
どうして誰にも心が開けなかったのかがよくわかりません。

というより心を開くことを諦めて他者と関われたら救いがあったのでは…と思いました。

たぶん主人公は自分以外の人間はちゃんと友や家族に心が開けていて、なんでも受け入れてもらえているみたいに考えていたのかも…

「それができていない己はだめだ…」と思い続けてしまったのかも……

みんな上手くできているわけじゃないけど、なんとかバランスを保ってやっている、ということになぜ気づけなかったのかがわかりません。

主人公は人間失格ということになったけど、なんだかんだうまく人間やれてた人間…ということなんじゃないか…?と思います。

堀木は享楽家っぽくて最初は主人公と同類かと思われていたのになんだかんだ上手く折り合いをつけられるタイプで、主人公は「えっ!?お前それどこで教えてもらったの!?俺はそんなチート知らねえけど!?」と混乱していてあわれでした。

というか堀木はなんだかんだ最初から世渡り上手タイプだったので、主人公が勝手に親近感を覚えていただけで全然違うタイプだし、そもそもなんでそんなチャラ男に近づいたのかがわからん

まあ主人公には主体性が無いからたぶん堀木から声をかけた形で知り合ったのだろうけど、普通は「こいつチャラ男じゃん近寄らないでおこ」となるのに、主人公はその判断ができず、しかも自分から離れることもできず、付き合いをやめられないという……

そいつのこと内心軽蔑しているのに……
最終的に堀木から優しい微笑みを向けられ救われたと同時に突き放されたみたいなのが悲しかったです。

やっぱりチャラ男と関わった主人公が悪いんじゃないのかな…
友達を選べない主人公…ほんとうにどうして…という気持ちです。

主人公に主体性が無さすぎて色々が意味不明でしたが、最後まで読めるくらいには面白い話だし考察が捗る話だと思いました。

途中の言語ゲームみたいなものは面白かったです。

それでは。

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