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一線を画す

高速に乗って、栃木に向かっているときにみた工場地帯があった。
姉は「汚い場所だ」といったが、俺は「綺麗な場所だった」と思う。

人には人それぞれの「目」がある。
「視点」とはまた違う、「価値観」という言葉で言い表すにもお粗末なものだ。そしてその「目」で見た「景色」がある。

カメラをもっていると、自分の目で見た「景色」を「写真」に収めることができる。「自分の景色」を半永久的に残すことができる。
言わずもがな素晴らしいことだ。

この世に「変わらない」ものなんてない。唯一ある「変わらないこと」は「変わらないことなどないという事実」のみだ。
そのとき好きだった「自分の景色」と全く同じものがもう一度見れるなんてことはあり得ないことだろう。

写真には、「景色」が映る。
この写真を撮った人は、これの何が綺麗だと思ったのか。なぜファインダー越しのこの景色を被写体に選んでシャッターを切ったのか。この被写体はなんなのか。いつの写真なのか。どういう背景があってこの写真を撮ったのか。そういうことを考えることができる。

写真には、その人の自分の中にある、自分なりの「綺麗」とか「美しい」とか「感動」とか「素晴らしい」とかの基準が見て取れる。

自分の撮った写真を見ると、だんだん自分の中にあるそういう基準が見えてくる。
多分そういう基準っていうのは、最初は大衆的なものに言い換えられる。「映える」とか、「エモい」とか、「黄金比」とか、「構図」とか。でも、
だんだん自分らしい「何か」が見つかってきて、それがどんどん「こだわり」になって、それが大衆と一線を画すきっかけになってくんだと勝手に思う。

それを通じて、自分の中にある「綺麗」とか「美しい」とか「感動」とか「素晴らしい」とかのそういう心の動きの起伏に普遍的に存在する動きに点を打って、等高線を引くことができる。
その線が、「自分」と「大衆」を区分する線になってくれるはずだから。

人の写真をインスタとかTwitterとかVSCOで見てると、みんなの「景色」がみれて、すごい楽しい。みんなの「一線」がみれるから。

でも、クソみたいな「映える」みたいな写真ばかりを撮ることしか頭にないカスどもはすごい嫌い。大衆に揉まれて、寄生して、依存することしか頭にない臆病者だから。

だから、俺は映えるような、誰かからの「いいね」がいっぱいもらえる写真を撮ることよりも、自分が一番好きな写真を撮ることを心がけてる。
し、自信を持つようにしてる。

一線を画すって、良い言葉よな。

P.S. なんか前の記事と似たようなこと書いてね?




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