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自己紹介note〜アスペな私の弱者戦略〜

まえがき

社会に出てから早いもので、10年が経とうとしている。
思い返すに私のつまずきは、社会人になってからであった。
子供のころ、わたしは一種の「成功体験」をしていたのである。

不自由極まりない小学生時代を経て掴んだ自由

あのころ 最大の敵は、父親だった。
父の方針のもと、小学3年生からの4年間を、中学受験のための塾通いに費やした。小学生にとって、友人と貴重な友好関係を育む時間である放課後を剥奪された悲しみたるや。地元の公立校で、同学年に受験のための塾通いをしている子供は皆無だった。


父が家にいる塾のない休日も、これまた地獄だった。
朝から晩の23時頃まで、『自由自在』という幅5センチはあろうかという分厚い参考書×4教科分の勉強をさせられる日々だった。
こんな不自由極まりない生活の先に、自由など待ってるわけあるか。
私には2つ上の姉がいたのだが、2階の子供部屋の窓から、「ここから飛び降りたらしねるかなあ」と言ったことがある。小学生にして、それくらいには未来に絶望していた。

また、夜眠るときも憂鬱だった。
父に「おやすみなさい」を言いにいく決まりになっていたのだが、そのとき毎度のように聞かれたのは、「お父さんのこと、すき?」と「将来の夢はなに?」だった。
ほんとは、顔も見たくないくらい大嫌いなのに。医学部へ行って医者になるよりも、パティシエになりたいのに。本音を言わせない無言の圧力に心底うんざりしていた。

なぜ父はこうまでして教育に熱を上げていたのか、というと
「娘をじぶんがなれなかった医者にしたい、そのために医学部へ入れたい」という願望からであった。
父は医学部まで進んだものの、血を見ると倒れるだとかでその道を諦めたらしい。じぶんが叶わなかった夢の後処理を押し付けられた身としては、溜まったものではない。

このなんとも不自由極まりない日々を経て、わたしは思いがけず自由を手に入れた。
それはなぜかー親の離婚である。
中学受験がおわって無事都内の志望校にも合格でき、これで少しは変わるだろうかと願っていた矢先、青天の霹靂であった。

父は私だけでも連れていこうとしていたようだが
母の抵抗や、もともと母方の祖父母の実家に暮らしていたこともあり
なんとかそれは免れて、晴れて自由の身となった。
私の人生はこれからはじまる!人生の主導権をようやく取り戻せた気がして、姉と飛び上がりながら喜んだ記憶がある。

また不自由な環境下でも、塾の中に大好きな友人や心から慕うことのできるチューター、先生を見つけることができ、勉強を楽しみ成果に繋がるようになったことも、大きな収穫だった。

面接官をオジサン呼ばわりして全敗していた就活生時代

そんな子供時代と、中・高・大学での生活を経て、私が大きく躓いたのは社会人である。
学生生活の中で、じぶんの物の見方やコミュニケーションの取り方が、ちょっと人と違うみたいだと薄々感づいていた。
でもそれは一種のキャラクター性みたいなものだろうと思っていたから、社会学的に考察してみればなんか見えてくるかなーと『不思議ちゃんの自己分析』といったテーマで卒論を書いた。よくこれで卒業できたなと今になって思うが、社会学という懐の深い学問を選択したじぶんにグッジョブと伝えたい。


1年目の就活は、内定が出なかった。憧れの広告代理店への就職を諦めきれず、就職浪人をして再トライしたものの、なんなら1次面接で落ちていた。なぜって当時私がESに書いていた自分の特技は、「オジサンと仲良くなること」で、必ずと言っていいほど毎回面接官(大体30代以上の男性社員)から「『オジサン』って何歳から?」と聞かれ、満面の笑みで「30代からです!」と答え、ベラベラエピソードを喋っていた。面接官に「あなたはもう私からしたら『オジサン』ですよ」と伝えて回る、ヤベー就活生だったことを自覚するのは、3社目で新卒の面接をすることになってからというちょっと先のお話である。
2年活動し、たまたまオジサンエピソードを言わずに済んでようやく内定の出た飲食店に、私は就職することとなる。

苦手領域ばかりを仕事に選んだ結果、メンタル大崩壊

1社目は同族経営の小規模な会社ではあったが、イタリアが本店のラグジュアリーな店構え。周囲は外資の高級ホテルが立ち並ぶ立地の店で、朝は9時から夜は23時頃まで働いていた。
毎日休憩が1時間、休日は月5日。
日替わりでランチとディナー、ワインのラインナップが変わり、
社内用語はイタリア語、接客は英語もある。
臨時イベントや貸し切り、芸能人などが来た場合のVIP対応も必要だ。

研修なんてないから、空き時間で必死に覚える。
それでも臨機応変な対応ができず、職場の人には陰口を叩かれ、パワハラぽいこともされていた。
先輩から個室に呼び出されて向かったところ、距離感が掴めずに「てめえ近えんだよ!!」と突如怒鳴られたこともあれば、
「なんで、あれしないの?」とお局様に言われ「すみません、あれってなんでしょうか・・?」と聞くも、笑われるだけで何も教えてもらえなかったり。そんなこんなでストレスも重なり、突発性難聴で入院。正式入社から半年で退職することに。
社会のレールを大きく踏み外した気がして、恐ろしいけれどもうこの職場では働けないし・・と逡巡しつつ、号泣しながら退職を申し出たのを今でも覚えている。

2社目は、一旦正社員雇用を断念し、社会復帰の手始めにとフリーターとして、小売業の接客をすることに。
30代の女性店長と、社員2人にフリーターが5人くらいが働く店だった。
女性店長とは最初うまくやれていたつもりだったのだが、
目をつけられた同僚との仲を取り持とうとし、彼女が辞めてから
その標的がじぶんに移り、態度が急変。
職場に行くのが恐ろしくなり、適応障害となって退職。ここでも号泣しながら女性店長に退職を申し出た。
社会で働くってこんなにしんどいの?と絶望しかなかった。

3社目は、半年の転職活動を経てなんとか入社できたITベンチャーだった。社員は500名くらいで、定期的に部署異動があった。
入社して1年くらいは、カスタマーサービスとして働くこととなった。新卒が大半の中で中途社員ということもあり、多少大目に見てもらっていたところもあり、実家から通って定時退社できる状態だった。

しかし既存顧客の訪問営業を行う部署に行き、状況が一変した。
8時45分から出社し、客先訪問が毎日2~3件。
19時頃帰社したあと、終電の23時過ぎまで会社で残務。
売上ノルマに追われるも成果が出せず、上司の圧力で休みは週1に。
実家から通えずひとり暮らしを始め、使える時間もお金もどんどん減っていった。

ひとり電車に乗っているだけで、涙が出て止まらなかった。
「もっとポジティブになれ」と上司に言われ、ネガティブ思考で売上の上がらないじぶんは価値がないんだとおもった。
もう、いなくなりたい。
鬱状態になり、友達に助けを求め、背中を押して貰う。
たった1日、だけど決死の出社拒否を経て、仕事を変えてもらうことに成功した。
異動先の後輩に話をきいてもらったとき、「価値観の押し付けって、うざいですよね」という言葉をもらい、おもわず目から鱗が落ちた。
「・・そんなこと、思っていいの?」
それからは少しずつ、ネガティブ思考なじぶんをそれでいいと認めることができるようになり、ようやく鬱状態から抜け出すことができた。

「アスペルガー」との出会い。戦略的に苦手領域から逃げる方針にシフト

価値観の押し付けへの反発。
自由を剥奪されていた子供時代、それでもわたしは心のなかで、そんな自分を肯定的に認められていた。
でも社会人になり、苦手仕事や失敗経験の積み重ねで自信はどんどん削られていき、そんなこと思っちゃう自分はいけない、って自分自身を攻撃するしかできずしんどかった。

そんな経験を経て、わたしは自分がASD(アスペルガー)という脳の特性を持っていると知ることになった。その特性と照らし合わせて振り返ってみれば、これまでは自分の苦手領域ばかりを仕事にしてきたのだと気づく。

  • 臨機応変な対応が必要とされる(パターンが決まっていないと不安、肩書や関係値に応じた距離の使い分けができない)

  • 暗黙知のコミュニケーションが求められる(暗黙知や空気を読むという行為が苦手)

  • 日々の外出、長時間労働で休みも少ない(感覚過敏で定型発達の人より疲れやすい)

  • アポ獲得、クロージング、カスタマーサクセス、制作ディレクションなど、一人で何役もこなさなければいけない(幅広い領域をオールマイティーにこなすのが苦手)

目指すのは健康で文化的なさいこうの生活

4社目に突入した今のわたしはというと、こんな感じである。

  • マニュアルがあり、パターンが決まっている

  • 普段対応する人や話すことがある程度決まっている

  • 内勤で勤務時間も9~18時、土日祝休み

  • 「反響対応〜アポ獲得」と対応領域が決まっていて、苦手な「商談〜契約締結」「カスタマーサクセス」については別職種に任せられる

今までの学びを経て転職をしたおかげで、日々の仕事へのストレスが大幅に削減された状態で、得意領域を活かしながら働けている。
そのため、とても満足度が高い。
わたしは『弱者の戦略』という本を愛読しているのだけど、自然界ならぬ人間界で弱い特性があるのなら
弱いなりに戦略を立てて(特にそれが「逃げる」という選択でも)、堂々と生き抜けばいいのだとおもっている。
新しい仕事は今年の9月からスタートしたので、環境の変化もあってか身体を壊しやすくはあるものの、お陰様で仕事がたのしいなと日々おもっている。

またその一方で、特に6年いた3社目では、
お金や時間、メンタルなどたくさんの犠牲を払ったけれども、
そのぶん仕事に前のめりになり熱中するたのしさを経験できたこと、
「やらされ仕事」からいち早く脱却してなんでも「自分ごと化」していく仕事の思考方式を身に着けられたことが大きな収穫となっている。
この点については長くなるので、あらためて別のnoteで書いてみようとおもう。

そんなこんなで、いろんな経験や失敗を重ねてきたじぶんが
愛おしくもあるし、よくがんばってきたよねと抱きしめたいきもち。
このnoteでは自身の恋愛や家族のこと、仕事や本、映画の感想など
いろいろなことを書いているけれど
もし何かの記事が、苦しんでたりじぶんのこと好きになれないなあとおもってる人の、傍らでそっと寄り添えるものだったら嬉しいな。

ではでは

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