高校生〜大学入学まで
1年生
晴れて山梨学院に入学した僕は、いきなりトップチームの左サイドのスタメンになることができました。運がよかったです笑
しかしそこで悲劇がありました。高校の入学式がある前にトップチームの公式戦に出たのですが、そこで相手のスライディングをもろに喰らって地面に手をついた瞬間に右手の小指が折れました。なので右手にギブスしたまま入学式に参加しました。
甘い話には罠があるんですね笑
山梨学院の始まりは骨折から始まりました。
骨折から復帰してもトップチームに在籍していましたが、正直1年生の時の記憶がほとんどありません。
初めての寮生活で生活が激変して、「FC東京のジュニアユースから来たからって調子乗るな」と先輩から怒られ、1年生の時のことを思い出そうとしても私生活の事しか思い出せません。
『1年生ならボール拾いとか走りとかあるでしょ』
って思う人がいるかもしれませんが、僕はずっとトップチームに所属していたため、そのようなことは一切ありませんでした。
なんで1年生の記憶があまりないかというと、個人的な見解として自主的な行動が圧倒的に少なかったからだと思っています。
悪く言うとやらされていた、良く言うと言われたことをしっかりやっていたって感じですね。
『自分から何か行動を起こす』
これが1年生の時は全くできていなかったです。
だから記憶に残らず、頭の中の古い記憶として消されているんだと思います。
人間の脳は携帯の容量と同じで、古いものから消されていって、大事なもの(お気に入り登録)として登録しておかないと残らないですね。
登録の仕方は『アウトプット』です。
自分からアウトプットすることによって脳は大事なものと認識して記憶に残るように出来てます。
2年生
2年生では語ることは高校サッカー選手権一択ですね。
結論から言うと、第88回全国高校サッカー選手権大会で初出場初優勝しました。
正確に言うと優勝させてもらったって方が個人的には正しいかもしれないです。
完全レギュラーとして試合に出てた訳ではなく、出たり出なかったりって感じだったからです。
ただ、めちゃくちゃいい経験になりました。
満員の国立競技場でプレーすることは叶わなかったですが、ベンチから観客席を見ただけでも鳥肌が立ちました。
実はその年のインターハイは県予選で負けています。
県予選で負けて、気合入れ直すためにチームみんなで坊主にしたのはいい思い出です笑
その坊主があったから選手権で優勝できたって訳では無いですが、結果的には良かったんでしょうね。
個人的には全国大会1回戦の野洲高校との試合に勝ったのがチームが勢いに乗れた要因だったかなと思っています。
先制されたけど、結果は4-2。
正直、初戦で野洲高校と当たるのは嫌だなと思ってました。
あとはやっぱり何と言っても決勝の青森山田にいた柴崎岳は上手かったです。
同じ2年生とは思えない落ち着きで、圧倒的な存在感でした。
選手権が終わった直後にアントラーズ入団内定してました。
高校2年生で吉永一明さんと出会ったのも人生を変えてくれたと言っても過言ではないです。
口数が多い人では無かったですが、人としてしっかり関わってくれました。
コーチと選手って関係よりも、人と人っていう関係でした。
走りはしんどかったです。笑
高校2年生はほんとにあっという間に過ぎました。
3年生
自分達の代が最高学年になり、前年度高校サッカー選手権優勝したということもあり、ほんとに凄まじいプレッシャーがのしかかりました。
そんな中、またもやシーズン初めに右膝の内側靭帯を損傷してしまいます。
全治3ヶ月くらいだったかな?正確な期間とかは覚えてないですが、確かそれくらいだったと思います。
プレーしてる時は週初めの走りやだなーとか思ったりもありましたが、怪我して外からグランドを眺めてるとやっぱり早くグランドに立ちたいって思いがだんだん強くなっていきました。
予定通りに回復し、レギュラーもしっかり取り、夏のインターハイを迎えました。
結果は全国大会3回戦で市立船橋に負けて終了。
スコアも1-4。
僕らのインターハイは沖縄開催だったんですが、明らかに市立船橋に走り負けした感じでした。
失点にも絡んで、自分でも本当に不甲斐ないと思います。
案の定、インターハイ後にスタメンを外されたりで、なかなか調子も上がらず気持ちの面もプレーの面もうまくいってなかったです。
基本的には左サイドバックが主戦場だったんですが、ボランチをやったりもしました。
調子が上がらないまま冬の高校サッカー選手権を迎え、僕はボランチを主戦場として大会に入りました。
山梨県予選はボランチで出たりしてたんですが、個人的にはサイドバックの視野の確保に慣れていたため、ボランチの360°からくる相手のプレッシャーに慣れず、ボールを奪われる回数が多かった思い出があります。
山梨県予選は無事優勝することが出来たんですが、個人的には左サイドバックで出場することが出来ずにボランチでも思うようにプレー出来ないというジレンマが残ったまま全国大会に駒を進めることになりました。
県大会優勝してから全国大会初戦までの間は1ヶ月間ありました。この1ヶ月間はとにかく走った思い出があります。めちゃくちゃきつかったです笑
1ヶ月間の走りで思い出に残ってるのが1000m×10本と50m→100m→200m→400m→800m→1000m→1500m→1500m→1000m→800m→400m→200m→100m→50mって流れで走るのが記憶にあります。
両方の走りともゴールが見えないほど走るので終わりが見えずに倒れそうになりながら走ってました。
当時の僕は走れる方だったので、加部未蘭(元プロサッカー選手)の背中を押しながら走った覚えがあります笑
当時の未蘭は本当に走れなかったですね笑
走りは賛否両論あるとおもいます。
僕は実際走りは大っ嫌いでした。
でも走ることによって走力が上がるってよりも間違いなくチーム力が上がります。仲間を思いやって何とか全員でタイム内に入ろうとして仲間を押すことや、声掛けも全てチーム力が上がる要素です。
今思えば走ったおかげで味方を思う気持ちが付いた気がします。
その一方で、走れるからってスタメンで出れるとかレギュラーになれることは全くありません。
現に僕は走れる方だったけど、選手権本戦では1試合も出れませんでした。
全試合ベンチから眺める大会でした。
チームは1回戦2回戦と順当に勝っていったんですが、僕はプレーでチームに貢献することができず、全く良い思いが出来ませんでした。
3回戦で流通経済大学柏高校と当たり、1-2で敗戦して高校生活最後の選手権を終えました。
この試合もベンチから見てました。
負けた悔しさよりも、自分が何も出来なかった悔しさの方が圧倒的にありました。
ロッカールームでも涙は出ずに、ただ呆然と自分がやってきたことは間違ってたのかと考えていました。
でも今になって思うのが、試合に出れなかったとしても自分から行動するしたことは間違いなく今の糧になっているなと思います。
ボランチをやってた時期も何とかいいプレーしようともがいてたこと、不貞腐れずにやり続けたこと。
これらは今現在の社会人サッカーにも生かされています。不貞腐れてプレーをやめることが1番成長を止める要因です。
最後の選手権が終わり、僕は2年生の時の全国大会優勝という経歴を最大限に活かして青山学院大学に入学を決めることができました。
実際には経歴だけではなく、ある程度の内申点や小論文や面接も必要でしたが、勉強面に関しては僕はしっかりやってたつもりなので難なく通過することができました。
そして、全国大会優勝という経歴を背負ったまま大学に行きます。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
次回、大学編も読んでいただけると幸いです🙇♂️
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