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『正欲』を読んだ

「正しい」や「受け入れる」といった表現を使うことが難しくなった。

「正しい」といった言葉の先には、「正しくない」という概念を作ってしまう。そしてその「正しくない」が人を傷つけてしまうこともある。

多数派の意見が「正しい」としてしまうと、少数派の意見が「正しくない」となってしまう。一方を「正しくない」と決めつけてしまうと、その「正しくない」側の人を非難してしまうような印象がある。

「受け入れる」というと、必然的に「受け入れる」側と「受け入れてもらう」側に分かれる。多様性、という言葉が普及した現在ではところどころで「多様性を受け入れよう」といった表現が見つかる。「受け入れる」側と「受け入れてもらう」側という構造になった時点で、多数派が少数派を許してあげる、といったように捉えられなくもない。

日々自分たちが使っている「正しい」や「受け入れる」が誰かを傷つけていたり、声を上げづらくしていたりする。『正欲』を読んで気付いた。

『正欲』は、水に性的興奮を覚える登場人物たちが児童ポルノで捕まるまでの物語だった。

性癖を扱う小説は初めてだったので、新鮮だったし知らない世界を発見できた。

捕まった登場人物たちは、児童を撮影するのが目的ではなかったが、本当のことを話してもどうせ伝わらないと、説明することを諦めていた。

わかってもらえないことを辛いと思いつつ、その事実を目の当たりにしたら自分もちゃんと理解できるかは、少し自信がない。被害者の父が検察だったが、児童ポルノで捕まえるという判断が妥当、と考える気もする。

世の中にわかってもらえない、という辛さは実感したことがないが、少しでもこの小説を読んで想像できるようになると、救われる人がいるかもしれない。

この物語にあったように、双方の同意がなかったり、一方が他方の無知や非力に漬け込んで思い通りに操作することは、自分が被害者だったら不快だ。

それでも、多数であるだけで決して「正しい」わけではないし、「受け入れる」側になるわけでもない。

これから「正しい」「受け入れる」という言葉を使わないで生きていくには少々難しい気がする。これ以外にも無意識に人を傷つける言葉はある。ひと呼吸置いて話す癖をつけたい。

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