台湾の市民主体の地域・社会づくり

7/5のモリゼミオープンレクチャーは『台湾編』。
投票率が高いなどニュースで流れているような表面的な知識程度しか知らないため、今回も学びの多い回であった。

当たり前のことを、当たり前にやる

レクチャーの中で一番響いたのは、「当たり前のことを、当たり前にやるだけ」という森先生の言葉であった。自分たちの場所は自分たちでつくるんだ、自分たちの居場所を守るんだというその「当たり前」が、今の自分達にとってとてもむずかしいことに感じてしまうのはなぜなのだろうか。

オープングリーンプロジェクトの背景

街の路地裏や空き地などの公共スペースを、自分たちでどうにかしたいと思った人が、それを実行できるという機会は、日本に一体どれだけあるのだろうか。
行政はあくまでプラットフォーマーに徹し、必要なリソースをつなげることにするだけで、果たして素敵な場所が生まれるだろうか。
多分そんなことは決してなくて、住む場所を奪われて蜂起したり、自分たちで活用するスペースをいろんなしがらみを乗り越えて作れたという大小無数の体験が、台湾の人たちを少しずつ変えていったのではないだろうか。
多分最初から今の形を描いたのではなくて、少しずつ進みながら、もがきながら今の在り方になったんじゃないかな、と森先生の話を聞いていて思っていた。

投票率の高さの前に、選挙に行こうという活動の数が多い

選挙へ行こうというSNSでの呼びかけや、政策の解説サイトが日本に比べて圧倒的に多いとのこと。その原動力になっているのは若者であるということは、それら若者がそもそも「自分たちの場所は自分たちでつくるんだ」という姿勢が『当たり前』なのだろう。
おそらく、先に書いたまちづくりやコミュニティづくりにふれる機会が幼少期から多いことが影響しているのかも知れない。自分たちも関わり、自分たちが作っているんだという体験がその姿勢を醸成する重要な要素なのだろう。
そしてそれ以上に、台湾という場所がなくなるかもしれない、アイデンティティが失われるかも知れないという感覚が、「自分たちの場所は自分たちで作らねばならぬ」という動機になっているのだろう。

日本と台湾の違い

同じアジア圏で島国だが、その住民主体の活動の違いは、これまで書いてきた要素に起因する印象がある。
すなわち、①自分たちでつくる機会の数と②自分たちの場所がなくなるかも知れないという感覚である。

①は、地域や関わる人によって差が大きい印象がある。最近はコミュニテイづくりやオープンイノベーションが盛んであるが、本当に住民が参加して作り上げられる機会は豊富なのだろうか。そのような機会に必然的に触れられる仕組みがあっても良い気がする。

②は、正直難しい気がする。経済的・産業的に衰退することがあったとしても、日本が無くなるということを本気で想像して奮起するような事態はやはりあまり想像できない。想像できないものに動機づけされることは難しい。国が無くなるではなくても、なにかしらアイデンティティが脅かされるような、危機感を覚える事態が発生すれば奮起するのかも知れないが、そんな事態に陥ることがそもそも望ましくない。

であれば、①をどうやって豊富に、効果的に、生み出していけるかがカギなのかも。なんてことを考えながら書いていたら締切が過ぎてしまいました。すいません。

今回も学びをありがとうございました!