「ぶっ飛ば」したい人達へ

本記事はお題企画「#映画感想文」に寄せる、映画『ブルーアワーにぶっ飛ばす』の感想記事です。
ネタバレと考察を含みます。


「さようなら、なりたかったもう一人の私」
映画『ブルーアワーにぶっ飛ばす』のキービジュアルに掲げられたコピーだ。 
 本作は地元を離れて働く一人の女性が、帰郷をきっかけに自身の理想に折り合いを付ける物語である。


 主人公・砂田(夏帆)はCMディレクターとして東京で働く女性だ。男社会の業界で一角のポジションを築き、優しい夫にも恵まれる一方、火遊びにも抜かりが無い。
 傍目から見れば恵まれた身分ではあるものの、当の本人は漠然としたモヤモヤを抱えている。
 一方、友人の清浦(シム・ウンギョン)は天真爛漫で人当たりが良く、何事にも肯定的だ。

 二人の性格は対照的に描かれるが、実は砂田と清浦は同一人物である事がラストシーンで明らかになる。


 砂田は作中で繰り返し「地元が嫌い」と口にする。一方で清浦は砂田の地元の、父の収集癖にも牛の顔にも、老人達の「むすんでひらいて」にも前向きだ。
 自身を育んだ地元に対する、清濁併せ持つ感情。箱田監督はその矛盾を、性格の異なる二人の人物に演じさせる形で表現した。
 「実は××は○○自身の内なる人格だった」という表現は目新しいものではないが、地元を離れた多くの人々が内に抱える普遍的なテーマに確たる輪郭を与えた本作は、鑑賞者に共感と感動を与えた事だろう。


 本作では牧歌的な、画的に「美しい田舎」はほとんど描かれない。「思い出は美しい」とはよく言うが、劇中で我々鑑賞者の目に入るのは、砂田が憎んできた閉鎖的な錆色の光景ばかりだ。よく晴れた光景が描かれたと思えば、清浦がウンコを踏んだりする。

 しかしラストシーンの夕暮れ時、ブルーアワーは美しい。
 30歳という節目に、清浦、すなわち好奇心旺盛で美味そうにタバコを吸う、砂田の「なりたかったもう一人の私」はいなくなってしまう。

 このシーンは決して、砂田が自身の「なりたかった私」を諦めた事を表した訳ではないと僕は考える。
 清浦は最後に、「砂さんの地元に来て良かった」と言った。この言葉はおそらく、砂田が自身の二面性を丸ごと受け容れたという事だろう。
 そしてラストシーンの、作中屈指の美しい風景は、折り合いを付けた砂田が東京の生活、言い換えれば主題歌でも歌われた「潔さの果て」へ向かう心情を表しているのではないだろうか。


 本作で初めて監督・脚本を務めた箱田監督は、作品完成後のインタビューで以下のように語った。

「『家族を愛せない人間は世の中から外れた、救われない人間』と言われているようで。だから『家族って素晴らしいよね』とは言えない、でもそれでもよくない?という作品を作ることで救われる、自分のような誰かもいるだろうなと」

 箱田監督は砂田と同じ茨城出身で、東京でCMディレクターとして働いているという。
 いわば砂田(清浦)は、箱田監督自身でもあるのだろう。

 地元にいる家族親戚、友人関係、あるいは土地柄、空気感・・・地元を離れてなお、それら全てをまるごと愛せない人は多いのではないだろうか。
 きっと誰しも、地元の好きな所、嫌いな所、両方を心の内に持っている。そして、年老いた家族とどう関わるか、財産は、あるいは苦手な友人達とは・・・と、極めて個人的な不安・不満を誰に話せるわけでもなく、不意に将来を想って辟易する。
 そんな、多くの人が抱えるモヤモヤを箱田監督は映画の形に昇華し、僕を含む多くの鑑賞者に寄り添った。 


 最後に、話は逸れるけど。
 僕は「ぶっ飛ばす」という言葉の響きがバカっぽくてすごく好きだ。「クソ」とか「マジ」も好きだ。「ウンコ」も。
 しかし現在26歳の僕は、なかなかそういう言葉を口にするのが憚られるようになってきた(言うけど)。youtubeで「大人の言葉づかい」なんて検索していた所だ。
 しかしこの映画を観て、「切り替えが出来ていれば別に良いよな」と改めて思えた。

 この映画は、僕のように刺さる人もいれば、まったく刺さらない人も多い作品だと思う。
 が、地元との距離感を割り切れない人や、子どもっぽい自分をつい否定してしまう人達に、是非とも観て欲しい作品だ。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?