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夏の思い出 来たる因縁

子どもの頃は苦手な季節などなかったけれど、二十歳を過ぎる頃より夏を苦手と感じる様になり近頃は、異常気象の猛暑もあってか7月〜9月期間は「無」の表情となっており、接客業に就く自分としては(非常にマズイ)&職場に於いては(最大限テンションアゲアゲ)にしておかないと笑顔が出ない、魔の時期と化しておるのです。

10月頃より通常スタイルに戻り始め冬が聴こえ始めると、ピタッと来る。

この年間ローテーションが定着している人生。この夏もいつも通り。

とはならなかった。因縁の夏であった。

令和6年。この年が巡って来るのを待っていたのかもしれんなぁ…。

歳を重ねる事に、捨てることと拾う事の収支がまるで、決算の様に起こってくる。身軽になると同時に何を拾うのかの岐路度合いが減り、更に手にしたいと思うものはより鮮明となり、若かりし頃の様に何でも取り敢えず拾ってみよう。とはならなくなるのだ。

様々な想いや人との交流が生み出す感情の鮮度は一瞬で凍結され、冥途の土産よろしく再び解凍されないままに玉手箱の奥深くへと仕舞われていく。

その習性は、毎日が新しい、しかしながら、繰り返し同じ事で傷つかないと言った矛盾を何の違和感もなく内在させる。

何せ昨日の事は空の彼方なのだからこれを脳の老化と言ってしまえばそれまでなのだが。

体力と記憶力は確実に低下するものの、感情には耐性が付き、そちら方面は大地の様でありまた風の様でもある。

歳を重ねるというのは概ね、この様なものなのだろうと思う。これは全く持って人並みであり平凡、平和なのである。その平和が乱れた時、その時こそ「眠れるなんちゃら」の目覚めが起きるのだ。

常に平和であると言う実感は、変化を望んでいないと言う事と同等の意味を持つと思っている。

好むと好まざるに関わらず、起こるべくして起こった事は人生を織り成す紋様として深く刻まれるのだろう。その紋様は個人の人生の記録を絵画の様に飾る。というよりも、この先の世の、ほんの一片を形造る一雫になり得る紋様なのだと。


因縁とは巡り合わせなのだ。それに気づいてしまったら、再び手に取り読み直す。そこに仕舞われた一瞬を御朱印帖の如く紐解く時、新たな感性との出会いが待っている。  

ぱらぱらと解く頁から零れる音を拾い集めると、過去に知っていたもの、体験済みの内容から「なるほど、そういう事だったのか…」と、それは手垢のついていない辞書の様に、新たな叡智として蘇ってくるのだ。

これまでとは違う解釈が生まれるのだった。

あの時、都合よく出会った人、その人から放たれた言葉や出来事の意味が新たな解釈を持ち示される時、それをどう受け止め仕切り直すかは自分次第であり、未踏の大地への一歩があるとするならばまた、それに相応しい人物が時を超え復活したりもするのだった。

タロットカードNo.1魔術師とNo.13死神のカードが同時に出揃った様なそんな状況。

自分次第では、それは次への展開、No.21世界(World)へと繋がって行くのだろう。

人生は自分で決めるのだとタロットは教えているのだと思えた。法則など無視し無秩序の中に入る準備は年齢を重ねた事でクリアになった。

私は待っていたのだと思う。

自分で自分を超える機会を。不満や不足を補うためではない、鍛錬のためでもない、そんな道理を必要としない山を、景色を味わいながら登るより歩いてみたくなったのだった。



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