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2022.12.8 「判断をしないこと」

「頭の中がどういう風になっているのか見てみたい」と言われることがよくあった。

実際のところ、この脳は自分でもよくわからない働き方をしており、何をしているわけでもないのだが無数の判断を勝手に下し、一日が終わる頃にはぐったりしているということがずっと続いていた。

数日に一度は10時間以上寝る有様。

記憶がある限り、25年以上はずっとこんな感じだった。

そんな中、最近の生活の中で少しずつこの過剰な働きがおさまってきた。

やったことは、出来る範囲での瞑想。
なんらかの宗教に影響されたなどではなく、とある事情で必要性を感じ、この秋から意識的に取り組んでいた。

やり方は、3分間の間3秒吸って5秒吐き、思考をなるべく手放して呼吸に集中するという至ってシンプルなもの。
本当は、15分や20分くらいは時間が取れれば良いのだろうけれど。

可能な範囲で、なるべく意図的に、何も考えない時間を作ることを心がけた。
頭に負荷がかかりそうになった時に、半ば反射的に行なっていた。

その結果、なんというか、今目の前にあるものの存在を「きちんと」認識するだとか(これまではなんとなく視界に入っていたような状態)、今食べているご飯のおいしさだとか、聴かず嫌いだった音楽を少しずつ受け入れるらだとかが出来るようになってきた。
そして、判断をしないことの大切さを実感することができた。
ああ、判断しなくていいって楽なんだと。
その結果、そのものをそのまま受け止めることができるんだな、と。

さっき歩いている時、ふとその変化を意識するタイミングがあり、自然と涙が溢れてきた。

著しく、嬉しかった。

やっと、やっとか、これでええんやなあ、何をきばっとったんや、力の入れどころを間違えてたなと、そんな考えが起こっていた。

人から嫌われることを極端に恐れていた僕は(自己紹介の記事参照)、他人の感覚を自分の中にインストールすることなら必死だった。
そんな幼少期。
だから、自然と物事に判断を下す癖がついたのだと思う。

25年以上も続いていた営みだから、これを手放すのは容易では無い。
しかし、自分を苦しめていたものの正体が分かったような気がして、少しだけ肩の荷が下りたような思いだ。


そして、この勝手な判断のせいで、たくさんの人に対して申し訳のないことをしてきたことを改めて自覚した。

こうあるべき、を他人に押し付けるというとんでもないことを、記憶する限り小学校の頃からやっていた。
厄介なやつだ。
そうなると、当然社会の壁にぶち当たることとなる。
27歳の時、絶望しかなかった。
周りの人の善意が苦しかった。
優しさが攻撃に見えたりした。
意識的に判断するより先に、脳が敵味方の判断を勝手に下した。脳ではなく、脊髄かもしれない。どっちだっていいのだけれど。

望まない口論や歪み合いを繰り返す度、自分を正当化したい気持ちと後悔の気持ちに挟まれてぐしゃぐしゃになっていた。

それでも自分を諦めないでいられたのは、諦めないで声をかけ続けてくれた人たちのおかげだと思う。

そして、気づいた時に傍にあった「音楽」の存在のおかげだと思う。


この習慣がいつまで続くかわからない。
けれど、この心地の良い感覚は忘れずにいようと思う。
やっと、やっと苦しさから解放される兆しが見えてきたのだから。

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