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村上光照老師の言葉を伝えるということ

先日、伝説の禅僧といわれる、村上光照老師の庵を訪ねた。

老師の言葉は、あっちに行ったきりの人のストレートな言葉だ。現在の禅僧の中には一旦あっちに行って戻って来て、こちら側の人にも理解できるように、言葉を練って理論的に伝える方や、坐禅だけでなく他のワークも取り入れて伝える方、慈善活動などの行動を通じて伝える方もおられる。そういった方々は本当にありがたい存在だ。修行が中途半端な凡夫の私には、そのようなガイドがあるからこそ、この道を歩いていける。とはいえ、あちら側の言葉をストレートに伝える老師は、稀有な存在だ。

老師は自分の言葉をテキストにして発表されることを好まれない。老師の言葉は、その場でおのずと現れた一期一会のもの。言葉を超えた世界を示されているのに、言葉だけでとらえて固定したら意味合いに差異が生じてしまう。言葉だけ一人歩きしてしまう危険もある。

それでも、歴代の名僧方のストレートな言葉が語録などの形で語り継がれているように、老師と同じ時代を生きる者の務めとして、その言葉を伝えていけないものか。もしかしたら100年後、1000年後、その言葉に触れて光明を見出す人がいるかもしれない。

そのために、今の私のできることは、老師の言葉をそのまま聞くことだ。何を意味しているのかとか、禅的な解釈はどうだろうとか考えずに、ただ聞く。そうしてできたスペースが老師のお心と一瞬重なる時、フッと伝わるものがある。もし老師の言葉をテキスト化するなら、頭を超えたところでの理解、触感、共振、そこをベースにするしかないのだろう。

今回は、帰り際に「目に見えないものを大切にしてくださいね」と言われた。目に見えないもの、形にならないもの、言葉にならないもの……、それは私の今生をかけた修行のテーマでもあるのだろうなぁ。


(訪問の詳細は同行されたサンガ新社の川島さんが、レポートしていますhttps://note.com/samghajapan/n/nd8a28350bc8f  )

          

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