テラミライプロジェクト -はじまり-
もう30代も残りわずかな私ですが、人生の半分以上"お寺"とは、ほぼ関わることなく生きてきました。私たちの親世代は、お寺の境内が良い遊び場だったという話も聞ききますが、実際のところ大半の人が、私と同じように"お寺"に馴染みがない生活を送ってきたのではないでしょうか。そして、私たちのこどもたちもまた、当然のように"お寺"とは疎遠な生活を送っているのではないでしょうか。
こんな私にとって"お寺"が身近になったのは、遡ってみると妻と付き合いはじめてから。もう10年以上前になります。当初は、"お寺"は全てがありがたいもので、全てがありがたい場所であるという勝手な先入観で、一歩引いて見ているところがありました。しかし、徐々に感じ方にも変化がみられ、段々と普段の私たちと、そうかけ離れている存在ではないと思うようになってきました。そして現在、"お寺"の中の人として、"お寺"でいろいろなイベントを企画させてもらったり、定期的にプログラミング教室をひらいてこどもたちと関わりをもったりしています。いわば"お寺"が身近な存在となった生活をおくっています。
"お寺と縁遠い生活"と"お寺が身近な生活"の両方を体験して感じるようになったのが、場としてのお寺の良さ。
私自身、正直宗教心は薄いです。
そんな私ですら肌で感じた"お寺"の良さを、他の人たちの普段の生活にも活かすことができたら。まだ気づいていない身近な場所が、改めて大切な意味を感じられる場所になったら。
きっと、普段の生活の中で感じる心の豊かさが向上し、その小さな価値の集合が、素敵なものを生み出していってくれる。
肌で感じたそんな期待を形にすべく、テラミライプロジェクトはじめます。
現代の寺離れ
"お寺"といえば、檀家としての繋がり、昔からの付き合いが代々続き、今に至っているところが多いのではないでしょうか。
以前、祖父の死に目にあえた時に、故人を偲ぶことは現代においても大切なことだと、改めて感じたのをよく覚えています。
昔から変わらない大切にすべきものがある一方で、少しずつ変わってきているものもあります。その一つが"お寺"に対する価値観だ私は考えています。昔の人たちが感じていた"お寺"に対する価値観と、今の人たちが感じている"お寺"に対する価値観には大きな隔たりがあるように見えます。その結果、寺離れがよりスピードを上げて進んいるのだと思います。
実際にお寺さんに話をきいてみると、自分のこどもたちの代のことを考えると、今手をうっていかないと、このまま"お寺"を存続していくのは難しい。そう感じているが、ただどうしていくといいのかイメージがないという話をよく聞きます。
それでは、どうしていくのが良いのでしょうか。
"お寺"の存在意義を再定義する
寺離れが進んでいるといっても、それは"お寺"の価値が失われてしまったということではありません。当然のことですが、これまでの"お寺"に感じていた価値を、今もなお価値として感じている人も多くいます。
ただ、ひとつ言えるのは、"お寺"の価値を判断してもらうための土俵に上がれなくなってきているということがあるかと思います。
なかには、お寺でヨガをやったり、坐禅会をやったり、テクノ法要といった少し思い切ったことをやったり、様々な取組をされているお寺も多く見受けられます。こうすることで、まずは土俵に上がり、そして、新しい取り組みも含めた価値を見出してもらう。
つまり、再定義するといっても一新するわけではなく、プラスαの価値を新たに発掘、もしくは再発見し、それらを新たな価値として付け加えて再定義していくイメージ。プラスαの価値に共感した人たちは、きっと納得して生活に"お寺"を取り入れていくようになると思います。
正直亡くなった人たちのためという意味合いが強い(少なくとも私がそう感じている)"お寺"のイメージを、今を生きる人たちのためというイメージに少しずつ塗り替えていければ。そうなれば、きっと未来はより豊かで明るいものになる。
さまざまな世代の人が寄る場所に
イメージを変えていくために、まずは未来を担っていくこどもたちが寄れる場所づくりをしていきたいと考えています。もう、はじめて2年になるプログラミング教室もその一つです。
妻の実家のお寺は臨済宗のお寺で、毎年出店がでる地域では大きなお祭りがあるお寺です。今年は、新型コロナの影響で出店なしの祭礼でしたが、例年は多くのこどもたちに加えて、さまざまな年代の人たちが楽しそうな顔を見せてくれます。
日常の中で、ちょっとした余白と非日常感が交差する場所。
こういう場所や機会はすごく良いものですが、すごく少ないものでもあります。毎年のように、そう感じていました。年に一度といわず、もう少し規模の小さなこども縁日のようなイベントを、頻度を増やしてやっていけたら。最初は遊びに来るだけの場所かもしれません。それが、時には学びの場となり、またある時には発表/発信の場となり、気づけば楽しみを創り出す側としてのもてなしの場となる。そんな様々なロールを楽しんで体験していける場が身近にあったら、そこで時を過ごしていくこどもたちは将来何を想い、何を考えるだろうか。
そんなことを空想していると、楽しみしか思い浮かびません。
自ら楽しみを生み出すための余白と体験を
なにかと詰め込まれて生きている現代の人たち。そんなことに気づくこともなく、また、そんなことを考える余白すらない人たち。
詰め込まれているのと、自分で詰め込んでいるのとでは全く意味が違います。ただ、自分で何を詰め込みたいのか決めるには、それを考えるための軸となる原体験と、それを考え続け、考え抜くための余白が必要です。
私は今、これまでにない余白の中で、自分で詰め込みたいことを動きながら決めていこうとしています。そのひとつが、このテラミライプロジェクト。
この活動を通して、自分の未来を切り拓いていくつもりです。
次回に続く
次回は、テラミライプロジェクトの「目的」「なぜ"お寺"なのか」「活かすべきところ」「とどけるべきヒト」「とどけるべきコト」「うみだされるモノ」について書きたいと思います。
想いに共感してくれる様々な人たちと共に、いろいろな活動をしていければ幸いです。
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