献血で人を好きになる話

献血という行為のメリットについては以前に書いた。今日はそこに、最近気づいたメリットをひとつ加えたい。献血に行くと、人間のことが好きになれるのだ。

とかく世知辛い世の中である。誰しもそう認めざるをえないだろう。どんな時代でも、どんな場所でも、具体的な世知辛さを挙げられなくても、世の中が世知辛いことは不変の(かつ普遍の)真理である。大抵の場合、世知辛さのスパイスは人間だ。歩道をとぼとぼ歩いているだけでいきり立った自転車に轢かれそうになるが、運転しているのは生身の人間である。

いろいろな手続きをしに職安(ハローワークより響きが切実なのでこう呼びたい)に行った帰り、昼食で石焼きビビンパを平らげたわたしは時間を持て余していた。家に帰って積まれた本を読むのがもっともベタな選択肢であったが、職安の空気を全身に浴びたわたしには、「何か人の役に立ちたい」という社会性が宿っていた。ならば取るべき選択肢は一つ、献血に行くことである。

平日の昼間にも関わらず、都心の献血ルームにはちらほらと人がいた。待合室に設置されたテレビでは、新元号発表の瞬間が何度も繰り返されていた。どこまでも具体的で実利的な「献血」に比べたら、気分しか変わらない「改元」のなんと軽薄なことよ……。わたしが人類史レベルでそう嘆いていると、ある老紳士の姿が目に入った。

その老紳士は、受付担当者と気さくに話していた。どうやら「認知」されているらしい。全血献血・成分献血などルールが多少複雑であるが、献血には回数制限があるため、週一回を上回るペースで献血に行くことはできない。つまり「認知」のハードルの高さで言えば、献血はスナックやバーよりも遥かに上なのだ。この老紳士はそんなハードルをやすやすと飛び越え、受付担当者と談笑しているのである。

そんなイカした老紳士を横目で見ながら、わたしは血圧を測り、睡眠時間などのアンケートに答え、医師との面談も血液検査も済ませ、待合室で呼び出されるのを待っていた。「採血までにコップ二杯くらいの水分をお取りください」と忠告されていたわたしは、ぬるめのお茶を二杯飲み干した。飲み物全般が好物であるわたしにとって、無料の飲み物をいただきながら採血を待つのは至福のひとときである。この時間がずっとつづけばいい、そんな叶わぬ願いを抱いていると、フードコートで借りるやつの「プロ仕様」みたいな武骨な呼び出し器が、大きくて明瞭な、しかし血圧を上げない電子音を鳴らした。採血の時間だ。

採血室には四つの椅子があり、左右一列ずつ向かい合わせで並んでいた。わたしは右側手前の椅子に座ることになった。「あっちが終わったら始めるからね」と看護師に言われそちら側、左側手前の椅子の方に目を向けると、20代前半くらいの女性が採血を終えようとしていた。きれいな人だった。その美しさが外見だけではないことは、平日の昼間にこの場所にいることで証明されているはずだ。

彼女の採血が完了し、看護師がわたしの採血を始めようとした。彼女は慣れない採血に気分を悪くしたのか、マッサージをしながら水分を取っている。「じゃあ、ちょっとチクっとしますよー」と看護師が告げ、ちょっとどころではないことを知っているわたしは一瞬怯んだが、情けない姿を彼女に見せたくない一心で平静を装った。

彼女の気分が回復するか、わたしの採血が完了すればこの時間は終わりである。しかし無常にも、わたしの血管は採血に向いているらしく、ぐんぐんと血液バッグが膨れていく。看護師いわく「きっと今までの担当も内心感心していた」らしいわたしの太い血管が、今日だけは憎かった。

血液バッグが400mlに達し、わたしの採血が完了した。もうお別れだ。ふと前を見ると、彼女はまだ水分を取っていた。「森さんどう?気分が悪かったらちょっと水分取ってく?」と看護師に問われた元気いっぱいのわたしは、「すいません、そうします」と答えた。

飲み物を渡されたわたしは、好物である飲み物を渡されてうれしくなり、なかなかのスピードで飲み干してしまった。これ以上の延長工作は不可能だ。わたしは後ろ髪を引かれつつ、採血室を後にした。彼女はまだ、水分を取っていた。

わたしのせいで採血が遅れた人がいるかもしれない。そう思い至ったのは、ビルを出てしばらくしてからだった。申し訳なく思うと同時に、血液型だけでも聞いておけばよかったと後悔した。

次回の更新は4月9日火曜日、夕方です。



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