献血の話

献血に行くのが好きだ。献血はいい。何はともあれ字面がいい。「社会貢献」の「献」に、「血の通った人間」の「血」である。もし電話で誰かと話していて、相手に「献血ってどういう漢字でしたっけ?」と聞かれたらこう答えることにしているが、そんな機会は訪れたことがない。

これは自慢してもいいことだと思うが、わたしは複数回献血クラブ「ラブラッド」のメンバーである。日本赤十字社がわたしを、「積極的に献血に協力する見込みのある人間」だと認めているのだ。このクラブ名の由来はもちろん「ラブ」と「ブラッド」であり、一般公募による命名コンテストの応募作のなかから選ばれたものだ。某高輪G駅(ぼかせてない気もする)の担当者に見習ってほしいくらいに、我々の腑に落ちる選考結果である。

とにかく、献血は最高だ。「血」と「高」の組み合わせは高血圧体質のわたしに多少の緊張感を呼ぶが、それでも最高なのだ。輸血を受ける患者、医師や病院だけでなく、献血者(「ラブラッド」公式サイトの語彙)にとっても献血には美点がある。

まずは現金な話をしよう。献血に行くと、色々もらえるのだ。もうすぐ「二個前の元号」となる昭和を生き抜いてきた世代にとっては、献血のおみやげといえば「ヤクルト一本」だろう。しかしいまでは様変わりして、わたしの行きつけの献血ルームでは自販機、漫画や雑誌、お菓子、アイスクリーム、さらにはPC用のコンセントまでが献血者のために用意されている。もちろんすべて無料だ。わたしの記憶では一度、ロッテリアの温かいハンバーガーが配布されたこともあった。もちろん常識の範囲内ではあるが、献血ルームでは存分にくつろぐことができる。

しかし、所詮人間である我々は、空腹が満たされているとか、健康を保てているだけでは満足ができない。次に求めるものは、承認である。なんと献血は、この厄介な承認欲求をも満たしてくれる。

考えてみてほしい。献血者の我々の仕事は、献血ルームに行って水分をとり、ベッドに寝て、血を吸われることだけだ。端的に言えば、生きているだけで人の役に立てるのだ。この感動は強力である。「生産性」という言葉に苦しめられている人には、ぜひ一度、献血に行ってもらいたい。役に立たなくたって命は尊いが、ありのままの命を役立たせることはできるのだ。

すこし大げさな話になってしまった。この文章で好感度が上がることで、わたしの承認欲求が満たされればいいのに。

次回更新は1月11日金曜日、正午です。

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